ジョン・ランドルフ

ジョン・ランドルフ
John Randolph of Roanoke
第8代在ロシアアメリカ合衆国大使
任期
1830年5月26日 – 1830年9月19日
大統領アンドリュー・ジャクソン
前任者ヘンリー・ミドルトン
後任者ジェームズ・ブキャナン
アメリカ合衆国上院議員
バージニア州選出
任期
1825年12月26日 – 1827年3月4日
前任者ジェイムズ・バーバー
後任者ジョン・タイラー
アメリカ合衆国下院議員
バージニア州第5区アメリカ合衆国下院議員選出
任期
1833年3月4日 – 1833年5月24日
前任者トマス・T・ブールディン
後任者トマス・T・ブールディン
任期
1827年3月4日 – 1829年3月4日
前任者ジョージ・W・クランプ
後任者トマス・T・ブールディン
任期
1823年3月4日 – 1825年12月26日
前任者ジョン・フロイド
後任者ジョージ・W・クランプ
アメリカ合衆国下院議員
バージニア州第16区アメリカ合衆国下院議員選出
任期
1819年3月4日 – 1823年3月4日
前任者アーチボルド・オースティン
後任者ジェイムズ・スティーブンソン
任期
1815年3月4日 – 1817年3月4日
前任者ジョン・W・エップス
後任者アーチボルド・オースティン
アメリカ合衆国下院議員
バージニア州第15区アメリカ合衆国下院議員選出
任期
1803年3月4日 – 1813年3月4日
前任者ジョン・ドーソン
後任者ジョン・カー英語版
アメリカ合衆国下院議員
バージニア州第7区アメリカ合衆国下院議員選出
任期
1799年3月4日 – 1803年3月4日
前任者エイブラハム・B・ベナブル
後任者ジョセフ・ルイス・ジュニア
個人情報
生誕 (1773-06-02) 1773年6月2日
バージニア州コーソンズ
死没1833年5月24日(1833-05-24)(59歳没)
ペンシルベニア州フィラデルフィア
政党民主共和党
専業プランテーション
宗教米国聖公会
青年時代のランドルフ、ギルバート・ステュアート

ジョン・ランドルフ: John Randolph of Roanoke、通称ロアノークのジョン・ランドルフ[1]1773年6月2日-1833年5月24日)は、アメリカ合衆国バージニア州出身の農園主および政治家であり、アメリカ合衆国下院議員および上院議員、さらには短期間だが在ロシアアメリカ合衆国大使を務めた。アメリカ合衆国下院において、トーマス・ジェファーソンの広報担当官を務めた後、1803年にはジェファーソンと訣別し、民主共和党の中で、中央政府の役割を制限し、州の権限擁護について先駆者となる「オールド・レパブリカン」あるいは「クイッド」と呼ばれた派閥の指導者になった[2]。特に1798年原則を推進した。この原則は、中央政府の法や布告の合憲性についてを個々の州が判断でき、それが違憲であるときは執行を拒否できるとしたものだった。

ランドルフはいたずら好きな機知に富み、頭の回転の速い雄弁家として共和主義を信奉し、アメリカ合衆国議会議員を務めた30年間を通じて商業的農本社会を提唱した。ランドルフの保守的な姿勢は、地主郷士の負債に反対し、その権利を守る議論に表されており、生まれたバージニア州南部における家産と最高のエリート的価値観に結びついていることに帰せられてきた。米英戦争(1812年-1815年)やミズーリ妥協(1820年)には激しく反対した。関税、製造業、通貨に関する議論では活発だった。奴隷制度に関しては複雑なものがあり、1816年に解放した黒人をアフリカの植民地に送るために設立したアメリカ植民地協会では、設立者の一人だった。奴隷貿易には反対したが、自分のタバコ・プランテーションでは数百人の奴隷労働に依存していた。その遺志で奴隷の解放とオハイオ州への移住を行わせた。

バージニア州の選挙民はランドルフの激しい性格と活発な選挙運動を楽しんでいた。楽しませ、また啓蒙するような弁論、社交性、および特に農業における興味の集まりでヨーマン(自営農)に直接訴え、ランドルフの個人的な欠陥があるにも拘わらず、有権者を長く惹きつけておくことになった。小さな政府を守ろうとしたことは、当時も今も、例えばラッセル・カーク(1918年-1994年)のような保守派に訴えるものがある。

生い立ち

ランドルフはバージニア州コーソンズ(現在のホープウェル)で生まれた。父はタバコ農園主ジョン・ランドルフ(1742年-1775年)、母はフランシス・ブランド(1744年-1788年)だった。どちらの家系もバージニアの第一世代家系に属する、ランドルフ家とブランド家であり、互いに姻戚関係も多かった。ランドルフ家の祖父はリチャード・ランドルフであり、その祖父はウィリアム・ランドルフだった。ブランド家の祖父はコーソンズのセオドリック・ブランドであり、その曽祖母はターキー島のメアリー・アイシャムだった[3][4]

第一次大陸会議の柱石だったリチャード・ブランドペイトン・ランドルフにとっては従兄弟甥であり、合衆国下院議員のセオドリック・ブランドの甥、トマス・チューダー・タッカーの継甥、ヘンリー・セントジョージ・タッカー・シニアとナサニエル・バーバリ・タッカーとは異父兄弟であり、トーマス・ジェファーソンはその母がアイシャム・ランドルフの娘だったので従兄弟にあたった。継父のセントジョージ・タッカーは未亡人となっていた母と1778年に結婚した。母方の4代先祖はバージニア知事のリチャード・ベネットであり、クロムウェル護国卿時代にその職に選ばれ、1672年にジョージ・フォックスによってクエーカー運動に改宗したピューリタンだった。

ランドルフは若いときに病気になり、が無く、声が高かった。最初は家庭教師に付いて学び、ウォルター・モーリーの私学に入り、その後ニュージャージーのカレッジニューヨーク市のコロンビア・カレッジに進学した。フィラデルフィアでは法律を学んだが、実務を行うことはなかった。

ランドルフはポウハタン酋長の孫であるトマス・ロルフの子孫である[5]

ランドルフの墓所はリッチモンドのハリウッド墓地である。

政歴

ランドルフは26歳という異常な若さでアメリカ合衆国第6議会の議員に選出され、その後6期連続して(1799年-1813年)務めた。ニューハンプシャー州出身の連邦党員ウィリアム・プラマーは、その衝撃的な登場に関して1803年に次のように記した。

ランドルフ氏はブーツを履き、拍車を付け、手に鞭を持って下院に行っており、イギリス議会の一員の真似だと言われている。大変ほっそりしているが普通の背丈である。少し離れると年上には見えない。しかし近づくとその皺や灰色の髪が見える。30歳くらいだと思われる。著名なインディアンの王女ポカホンタスの直系の子孫である。連邦党員は彼を冷やかし、軽蔑している振りをするが、軽蔑された敵が危険な敵であることが多い。確かにその才能は月並みなものを遥かに超えている。人気のある演説家として下院の誰にも劣っていない。私は彼の創造力と演説を賞賛するが、彼の政治は嫌いである。

ランドルフは第7議会から第9議会まで下院歳入委員会の議長を務め、民主共和党指導者の代行を務めた。1806年に従兄弟であるトーマス・ジェファーソン大統領と訣別した後、民主共和党の派閥であるターシャム・クイッド(第3のもの)を作った。この派は、1798年の原則への帰還を要求し、忍び寄る国家主義と考えられるものを否認した。

ランドルフは独立戦争世代の政治的な理想を強く賞賛していたが、南部の反連邦主義感情に影響され、バージニアのエリート郷士の伝統的父性社会が、政府による最小の干渉によって社会の安定性を保つことを要求する共和主義の考え方を提唱した。1804年1月にはニューハンプシャーの地区裁判所判事ジョン・ピッカリングに対する弾劾裁判を行い成功させた議員の一人だった。同年12月に最高裁判所陪席判事のサミュエル・チェイスを弾劾しようとして失敗したことについて、ランドルフを非難する者もいた。

1807年6月、バージニア州リッチモンドでの大陪審を監督した。これはアーロン・バーなどを反逆罪で起訴するかを検討するものだった。審問の最後になって、トーマス・ジェファーソンがバーの主要告訴人であるジェイムズ・ウィルキンソン将軍を支持したことで、ランドルフは怒った。ランドルフは、ウィルキンソンが信頼にも尊敬にも値しない人物だと考えた。

ランドルフは米英戦争に反対したために、1912年の選挙では落選したが、1814年と1816年には再選された。1期を飛ばして再度選出され、1919年から辞任した1925年まで下院議員を務めた。1825年12月には上院議員の空席を埋めるために指名され1827年まで務めた。その後も下院議員に選出され歳入委員会の議長を務めた。

1829年にはリッチモンドでのバージニア州憲法制定会議の一員になった。1930年にはアンドリュー・ジャクソン大統領から在ロシアアメリカ合衆国大使に指名されて着任したが、同年9月に健康上の理由で辞任した。

1832年には再度下院議員に選ばれ、1833年5月24日にフィラデルフィアで死ぬまで務めた。ランドルフは生涯結婚しなかった。

ジョン・グリーンリーフ・ウィッティアの詩「ロアノークのランドルフ」は、バージニアが「奴隷権力」の象徴になった後に書かれたものだが、ランドルフの奇妙な輝きを伝えている。

Mirth, sparkling like a diamond shower,
From lips of life-long sadness;
Clear picturings of majestic thought
Upon a ground of madness
While others hailed in distant skies
Our eagle's dusky pinion,
He only saw the mountain bird
Stoop o'er his Old Dominion!
All parties feared him; each in turn
Beheld its schemes disjointed,
At right or left his fatal glance
And spectral finger pointed
その陽気さはダイヤモンドシャワーのように輝き
終生悲しみを湛えた唇からは
壮大な思想をはっきりと描き出す
それは狂気の上に乗っている
他の者が遠くの空を見て
鷲のほの暗い翼を褒めるとき
彼は山の鳥だけを見ており
昔の領地に屈みこんでいる!
全ての党派が彼を恐れ、翻って
その計画が解体されるのを見守る
かれの宿命的な視線が右を向くか、左を向くか
不安の指が何を指すかを

奇行と傍観者的姿勢

ランドルフはバージニアの紳士であり、かつてない雄弁家の一人であり、下院の指導者だったが、5年間指導力を発揮した後の1803年には、永遠の傍観者になった。個人的には奇行もあり、終生病気がちであり(結核で死んだ)、酒量が多く、ときとして麻薬を使うことで奇行が増した。ビル・カウフマンに拠れば、「習慣的に麻薬を使っており、アンドリュー・ジャクソンに恋心を抱いたようにも見える独り者」だった[6]。一度はヘンリー・クレイ決闘したが、それ以外では議場での喧嘩っ早さを抑えた。派手な服装をすることが多く、奴隷や狩猟犬を連れてくることも多かった。「クレイが1811年に初めて下院議長に選ばれ、議長職を真の権威あるものにしようとしているときに、さりげなくランドルフに議場から犬を連れ出すよう命じた。そのようなことをした議長はそれまで誰も居なかった[7]。」

ランドルフはクレイと共に1816年にアメリカ植民地協会を設立した3人のうちの1人となった。これは奴隷所有者と奴隷制度廃止論者と協業して、解放された黒人をアフリカの植民地に送り、再入植させようという計画を作った協会だった。その植民地が後にリベリアになった。ランドルフは、他の奴隷所有者達と同様に、理論的に奴隷制度に長く反対してきていた。独立戦争後の20年間で、多くの農園所有者が奴隷を解放したので、バージニア州における解放黒人の比率は1782年の1%足らずから1810年の13.5%まで増加していた[8]

1819年、ランドルフは死後に奴隷を解放する遺書を作った。「私は私の奴隷全てに自由を与えると遺言する。一人でも所有者であったことを心から後悔している」と記した[9]。3年後の1822年、その遺言の補足書として、解放奴隷を自由州であるオハイオ州に購入した土地に運び、入植させるための金を提供すると規定した。40歳以上の奴隷に一人当たり10エーカー (40,000 m2) の土地が与えられた[9]。その遺志で数百人の奴隷を解放した[10]。この遺志は裁判所に異議申し立てされたが、最終的には奴隷が解放されることになった[11]。長たらしい訴訟の後も、ランドルフの遺志は維持された。1846年、383人の元「ランドルフの奴隷」がシンシナティに到着し、シェルビー郡ラムリーに入植した[12]

宗教

ランドルフは米国聖公会で育てられ、一生そのままの信仰だった。若いときに信仰を失くしそうになり、1818年には改宗する危険性もあったが、それらは数人の友人に宛てた手紙で回想される程度だった[13]。その後の人生は敬虔さで埋められており、例えばジョン・ブロッケンブローに宛てて、「罪深く飲み食いする恐れによって」聖体を受けないようにしていると記した[13]

語録

  • "我々は全て任務を果たすよりもその中身を知っている"
  • "私は貴族である。自由を愛するが、平等を憎む"[14]
  • "時間はすなわち最も貴重なものであり、我々が持っているものの中で最も壊れやすいものだ"
  • (1807年通商禁止法に言及して) "穂先を切ることでトウモロコシを保存することに似ている"
  • (1826年にジョン・クインシー・アダムズ大統領に触れて) "この政権を引きおろすために、合法的にできるかもしれないことを何もしないで置くのが私の任務だ。...無関心から、あるいはその目を開けて、裏切り者をその胸に抱きしめ続けるような者は、侮辱されるに値し、奴隷に値し、自分に取り付け、子孫にも伝えていく鎖の耳障りな音以外、慰める音楽の無い者である"

遺産と栄誉

  • 現代の保守派政治集団、ジョン・ランドルフ・クラブはランドルフの名を冠するものである
  • ランドルフ・メイコン・カレッジとランドルフ・カレッジはランドルフの名を冠するものである
  • アーカンソー州ランドルフ郡ミズーリ州ランドルフ郡はランドルフに因んで名づけられた

先祖

ジョン・ランドルフの系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. Richard Randolph
 
 
 
 
 
 
 
8. w:William Randolph I
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. Elizabeth Ryland
 
 
 
 
 
 
 
4. w:Richard Randolph
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. Henry Isham
 
 
 
 
 
 
 
9. Mary Isham
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. Katherine Banks
 
 
 
 
 
 
 
2. John Randolph
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. w:Robert Bolling
 
 
 
 
 
 
 
10. John Bolling
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. w:Jane Rolfe
 
 
 
 
 
 
 
5. Jane Bolling
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. Richard Kennon
 
 
 
 
 
 
 
11. Mary Kenyon
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23. Elizabeth Worsham
 
 
 
 
 
 
 
1. John Randolph of Roanoke
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. Theodorick Bland
 
 
 
 
 
 
 
12. Richard Bland
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. Anne Bennett
 
 
 
 
 
 
 
6. w:Theodorick Bland of Cawsons
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. = 8. w:William Randolph I
 
 
 
 
 
 
 
13. Elizabeth Randolph
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. = 9. Mary Isham
 
 
 
 
 
 
 
3. Frances Bland
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. = 20. w:Robert Bolling
 
 
 
 
 
 
 
14. Drury Bolling
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. Anne Dade Stith
 
 
 
 
 
 
 
7. Frances Elizabeth Bolling
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. Francis Meriwether
 
 
 
 
 
 
 
15. Elizabeth Meriwether
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31. Mary Bathurst
 
 
 
 
 
 

作品

  • Randolph, John. Letters of John Randolph, to a Young Relative, 1834, 254 pp. (Available online.)
  • Randolph, John. Collected letters of John Randolph of Roanoke to Dr. John Brockenbrough, 1812–1833, edited by Kenneth Shorey; foreword by Russell Kirk, Transaction Books, 1988. ISBN 0-88738-194-4

脚注

  1. ^ ロアノークとはバージニア州シャーロット郡のロアノーク・プランテーションのことであり、同じバージニア州のロアノーク市ではない。
  2. ^ Varon, Elizabeth R. Disunion! The coming of the American Civil War. University of North Carolina Press.2008, p. 36
  3. ^ Page, Richard Channing Moore (1893) “Randolph Family” Genealogy of the Page Family in Virginia (2 ed.) New York: Press of the Publishers Printing Co. pp. 249–272 https://books.google.co.jp/books?id=cOBBAAAAMAAJ&pg=PA247&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false 
  4. ^ Glenn, Thomas Allen, ed. (1898) “The Randolphs: Randolph Genealogy” Some Colonial Mansions: And Those Who Lived In Them : With Genealogies Of The Various Families Mentioned 1 Philadelphia, Pennsylvania: Henry T. Coates & Company pp. 430–459 https://books.google.co.jp/books?id=iQkpAAAAYAAJ&pg=PA433&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q&f=false 
  5. ^ Louise Pecquet du Bellet, Some Prominent Virginia Families, p. 161
  6. ^ McCarthy, Daniel (2008-05-05) Fewer Bases, More Baseball, The American Conservative
  7. ^ Borneman, Walter R., Polk: The Man Who Transformed the Presidency and America. New York: Random House, 2008 ISBN 978-1-4000-6560-8. p. 25
  8. ^ Peter Kolchin, American Slavery: 1619-1877, New York: Hill and Wang, 1993, p. 81
  9. ^ a b David Lodge, "John Randolph and His Slaves", Shelby County History, 1998, accessed 15 March 2011
  10. ^ Peter Finkelman, "Thomas Jefferson and Anti-Slavery: The Myth Goes On", Virginia Historical Quarterly, Vol. 102, No. 2 (April 1994), p. 222, accessed 14 March 2011
  11. ^ Chisholm, Hugh, ed. (1911). "Randolph, John" . Encyclopædia Britannica (英語) (11th ed.). Cambridge University Press.
  12. ^ David Lodge, "Randolph Slaves Come to Ohio", Untitled article, Cincinnati Gazette, 2 July 1846, at Shelby County History, 1998, accessed 15 March 2011
  13. ^ a b Garland, Hugh A. (1874). “IX: Conversion”. The Life of John Randolph of Roanoke. II (13th ed.). New York: D. Appleton and Co.. pp. 94–104 
  14. ^ Russell Kirk, The Conservative Mind (1953), p. 130.

参考文献

  • Adams, Henry. John Randolph (1882); New Edition with Primary Documents and Introduction by Robert McColley, 1996, ISBN 1-56324-653-8; negative assessment. (Available online.)
  • Bruce, William Cabell. John Randolph of Roanoke, 1773–1833; a biography based largely on new material, in 2 volumes; New York, London: G. P. Putnam's Sons, 1922 (2nd revised edition in 1 volume 1939, reprinted New York, Octagon Books, 1970); exhaustive details. (Available online: Vol. I, Vol. II.)
  • Dawidoff, Robert. The Education of John Randolph, New York: Norton, 1979. ISBN 0-393-01242-5
  • Devanny, John F., Jr. "'A Loathing of Public Debt, Taxes, and Excises': The Political Economy of John Randolph of Roanoke," Virginia Magazine of History and Biography 2001 109(4): pp 387–416.
  • Garland, Hugh A. The Life of John Randolph of Roanoke; New York: Appleton & Company, 1851. (Available online: Vol. I, Vol. II.)
  • Johnson, Gerald W. Randolph of Roanoke: a Political Fantastic New York: Minton, Balch & Co., 1929
  • Kauffman, Bill. Ain’t My America: The Long, Noble History of Anti-War Conservatism and Middle-American Anti-Imperialism, Metropolitan, 2008.
  • Kirk, Russell. Randolph of Roanoke; a study in conservative thought, (1951), 186 pp. Short essay; recent editions include many letters. (Available online.)
  • John Randolph of Roanoke: a study in American politics, with selected speeches and letters, 4th ed., Indianapolis, IN : Liberty Fund, 1997, 588 pp. ISBN 0-86597-150-1; focus on JR's political philosophy
  • Risjord, Norman K. The Old Republicans: Southern Conservatism in the Age of Jefferson (1965); the standard history of the Randolph faction.
  • Tate, Adam L. "Republicanism and Society: John Randolph of Roanoke, Joseph Glover Baldwin, and the Quest for Social Order." Virginia Magazine of History and Biography 2003 111(3): 263–298.
  • Weaver, Richard M. "Two Types of American Individualism," Modern Age 1963 7(2): 119-134; compares Randolph with Henry David Thoreau online edition

外部リンク

アメリカ合衆国下院
先代
エイブラハム・B・ベナブル
バージニア州選出下院議員
バージニア州7区

1799年3月4日 - 1803年3月4日
次代
ジョセフ・ルイス・ジュニア
先代
ジョン・ドーソン
バージニア州選出下院議員
バージニア州15区

1803年3月4日 - 1813年3月4日
次代
ジョン・カー英語版
先代
ジョン・W・エップス
バージニア州選出下院議員
バージニア州16区

1815年3月4日 - 1817年3月4日
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アーチボルド・オースティン
先代
アーチボルド・オースティン
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1819年3月4日 - 1823年3月4日
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トマス・T・ブールディン
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先代
ヘンリー・ミドルトン
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