ジャッド・ウィルソン
Jud Wilson基本情報 |
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国籍 |
アメリカ合衆国 |
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出身地 |
バージニア州レミントン |
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生年月日 |
1899年2月28日 |
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没年月日 |
(1963-06-24) 1963年6月24日(64歳没) |
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身長 体重 |
5' 8" =約172.7 cm 185 lb =約83.9 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投左打 |
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ポジション |
内野手 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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- ボルチモア・ブラックソックス (1922 - 1930)
- ホームステッド・グレイズ (1931 - 1932)
- ピッツバーグ・クロフォーズ (1932)
- フィラデルフィア・スターズ (1933 - 1939)
- ホームステッド・グレイズ (1940 - 1945)
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選出年 |
2006年 |
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選出方法 |
ニグロリーグ特別委員会による選出 |
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ジャッド・ウィルソン(Ernest Judson "Jud" Wilson, 1899年2月28日[1] - 1963年6月24日)は、1920~1940年代にアメリカ合衆国のニグロリーグで活躍していた野球選手。主なポジションは三塁手。バージニア州レミントン生まれ。右投げ左打ち。ニックネームの"Boojum"(ブージャム)は、彼の放ったライナーが外野フェンスにぶつかる音に由来するという。
来歴・人物
第一次世界大戦から帰還した1920年に、ボルチモア・ブラックソックスに入団して野球を始める。1923年のシーズンは打率.373を記録してリーグの首位打者となったのを初めとして、1927年には打率.408(首位打者)、1929年にはリーグ最多盗塁、また1930年には打率.372とリーグ最多の二塁打を記録するなど、ボルチモアの主力選手として活躍した。また1925年から1929年のシーズンオフにはキューバのウィンターリーグにも参加し、2度の4割超えを含む通算打率.372という記録も残している。
その後ホームステッド・グレイズやピッツバーグ・クロフォーズなどに在籍し、1933年からはフィラデルフィア・スターズに加わった。当時の選手兼任監督だったウェブスター・マクドナルドは、激しい闘争心の持ち主だったウィルソンをチームのキャプテンに任命した。この策は功を奏したのか、翌1934年にウィルソンは打率.412を打ちチームをリーグ制覇に導く。当時ジョシュ・ギブソンは自分より優れた打者はウィルソンだと言い、またサチェル・ペイジは、『対戦した中で最もアウトの取りにくい打者は彼とチノ・スミス』だと語っていたそうである。
1940年にホームステッド・グレイズに移籍。1945年に50歳を過ぎて引退するまでの6年間、グレイズはリーグを制覇し続けた。ウィルソン自身もグレイズ在籍時にはニグロ・ワールドシリーズに3度出場している。1963年にワシントンD.C.で死去。2006年にニグロリーグ特別委員会によりアメリカ野球殿堂入り。
記録・表彰等
- ニグロリーグでの通算打率:.345
- メジャーリーグとの対戦成績:通算打率.356
脚注
出典・外部リンク