若い頃からパントマイムの道を志し、得意だったスポーツをネタにした芸でならす。1933年からミュージックホールの舞台に立ち、シドニー=ガブリエル・コレットから激賞を受けるなど人気を博した。1932年からは映画の仕事も始めたが、最初に話題になったのはルネ・クレマンが監督し、タチは脚本と主演を担当した『左側に気をつけろ(Soigne ton gauche)』(1936年)という短編映画である。タチはここでもお得意のボクシングの芸を披露している。クロード・オータン=ララの『乙女の星(Sylvie et le fantôme)』(1945年)と『肉体の悪魔(Le Diable au corps)』(1947年)に出演した後、1947年に短編映画『郵便配達の学校(L'École des facteurs)』を初監督した。この作品でタチは脚本・主演も担当し、この作品の主人公である郵便配達人フランソワは次の作品に活かされることになる。
本格的な長編映画デビューは、監督・脚本・出演を兼ねた『のんき大将脱線の巻(Jour de fête)』(1949年)である。フランスの片田舎の郵便配達人が、アメリカ式合理主義に影響され、自転車で駆け回りながら騒動を巻き起こすコメディ映画であった。この作品は当初モノクロ映画として上映されていたが、実は同時に2色方式トムソン・カラーによるフランス最初の長編色彩映画として全編撮影されていた。技術的な困難さのために公開当時はこのカラー・ヴァージョンを公開できなかったが、1995年、タチの娘を中心にシネマテーク・フランセーズによって復元され、日本でも劇場公開された。この作品の舞台は、タチがドイツ占領下のパリを逃れて住んだサント・セヴェールという小さな村で、その村が大変気に入ったタチが映画の舞台に選んだのであった。
長編第2作は『ぼくの伯父さんの休暇(Les Vacances de Monsieur Hulot)』(1953年・モノクロ映画)。ユロ氏がフランスの浜辺の高級リゾートに現れ、8月の優雅なバカンス地に大騒動を巻き起こす。ユロ氏を中心にコミカルなエピソードが次から次へと繰り広げられるが、ほとんどでサイレント映画のような視覚的ドタバタに終始している。サウンドトラックは英語版・フランス語版の2種類が作られたが、音楽とサウンド・エフェクトが多くを占めており、独特の音響センスに満ちている。この作品は米国のアカデミー賞オリジナル脚本賞にノミネートされ、また後のヌーヴェルヴァーグの批評家にも大絶賛された。
アカデミー賞受賞時には、これら無声喜劇映画のスターたちを念頭に「If Hollywood had not done so many funny pictures, I would not be here tonight. For all those great comedians, I am not the uncle, but the nephew.(もしハリウッドがあれほどたくさん面白い映画を作っていなかったら、今夜私はここにいないでしょう。あの偉大なコメディアン諸氏に対して、私は「伯父さん」ではないのです。私は彼らの甥っ子なのです)」とのスピーチを残している。
『プレイタイム』製作中に資金難に陥り、製作が一時止まった時、短編『ぼくの伯父さんの授業(Cours du soir)』(1967年)が撮られる。これは、ユロ氏が彼のコメディを出来の悪そうなコメディアン志望者たちに伝授するという内容であった。劇中には郵便配達人フランソワの姿も登場しており、懐かしさを帯びている。
アニメ作品『ベルヴィル・ランデブー(Les Triplettes de Belleville)』(2002年)を監督したシルヴァン・ショメもタチの影響を受けたと公言して憚らない熱烈なファンの一人であり、2010年にはタチが生前に残した脚本をもとにしたアニメーション映画『イリュージョニスト』を制作している。