ホルマンの病気が軍務に伴うものであったため、ホルマンは1812年、ウィンザー海軍騎士(Naval Knights of Windsor)の称号を受け、ウィンザー城での終身保障を認められた。これは唯一の義務として一日二回教会に出向くだけで寝食が与えられる、という地位であったが、これはホルマンの活動的な性格と強い好奇心に合わなかったため、ホルマンは体調不良を理由に欠席届を何度も出した(実際に体調を崩してもいた)。こうしてホルマンはエディンバラ大学で薬学と文学を学び、その後1819年から1821年のグランドツアーで海外へと渡り、フランス・イタリア・スイス・ドイツの一部(ライン川沿岸)・ベルギー・オランダなどを巡った。ホルマンは帰還してThe Narrative of a Journey through France, etc.(フランス等旅行記 ロンドン・プレス 1822年)を発表した。
ホルマンは1822年に世界一周横断旅行に出発した。これは目が見えていようとなかろうと、単独旅行としてはほとんど前代未聞のことであった。だが、ロシアを通ってシベリアのイルクーツクまで進んだ後に、ホルマンはスパイの疑いをかけられた。これ以上東に進まれると露米会社の周辺活動を公表される恐れがあるとして、ホルマンは強制的にポーランドへと連れ戻された。その後ホルマンはオーストラリア・ザクセン州・プロイセン・ハノーファーを経由して帰還し、Travels through Russia, Siberia, etc. (ロシア・シベリア等の旅 ロンドン・プレス 1825年)を発表した。
その後間もなく、ホルマンはロシア政府によって阻まれた世界一周計画を何らかの別の方法で達成しようと計画を練り、1827年から1832年にかけて、海路による世界一周を果たした。そして、ホルマンの偉大な業績についての記述は、A Voyage Round the World, including Travels in Africa, Asia, Australasia, America, etc.(世界一周航海 およびアフリカ・アジア・オーストラリア等の旅)として1834年から1835年にかけて4巻立てで出版された。