サイモン・クラファー (Simon Crafar, 1969年1月15日 - ) は、ニュージーランド・ワイオウル出身のオートバイレーサー。
経歴
1991年、マレーシアのスーパーバイク選手権でチャンピオンとなる。1993年には第4戦スペインGP、500ccクラスのレースにハリス・ヤマハのマシンを駆ってデビューを果たす。第8戦ヨーロッパGPからは、ジョン・コシンスキーの後釜としてラッキーストライク・スズキ250ccチームでワークス仕様のRGV-Γ250を駆った。しかしクラファーは、自分の体格には小さすぎる250ccマシンのライディングを楽しむことはできなかった[1]。
1994年、クラファーは同郷のアーロン・スライトのチームメイトとして、Rumiチームでセミワークス仕様のホンダ・RVF/RC45を駆ってスーパーバイク世界選手権にフル参戦を開始し、初年度はシリーズランキング5位に入った。翌1995年シーズンも当初はRumiチームに残留していた。しかしホンダのワークスチームのダグ・ポーレンがシーズン序盤にチームを去ったため、クラファーはその後釜としてワークスチームのセカンドライダーの地位を得て、エースライダーのスライトと再び組むことになった[2]。ワークスマシンを得たクラファーはシーズン終盤にかけて徐々に強さを発揮し、第10戦アッセンのレース1では2位表彰台を獲得した。
翌1996年にはカワサキに移籍。1997年には2位を2回、3位を3回獲得するなどの活躍でシリーズ5位に入った。スーパーバイク世界選手権ではここまでトータルで10回表彰台に立ったものの、勝利は挙げられないままだった。
1998年、クラファーはレッドブル・WCM・ヤマハチームからロードレース世界選手権500ccクラスに復帰。ワークス仕様のYZR500を得たクラファーは、ドニントンでおこなわれた第8戦イギリスGPにおいてグランプリ初優勝を果たした。この勝利はWCMチームにとっても初勝利であり、またダンロップタイヤにとってはドライレースで挙げた最後のGP最高峰クラスでの勝利となっている。
翌1999年シーズン序盤はWCMチームに残留したが、新しいミシュランタイヤへの順応に苦しみ成績は低迷、シーズン途中でギャリー・マッコイにシートを奪われることになった。前年度勝利を挙げたドニントンにはMuZチームから参戦し10位入賞。これがクラファーにとって最後のGPとなった。500ccクラスでは通算25レースに出場、3度の表彰台を記録した[3]。
2000年にはスーパーバイク選手権にスライトの代役[4]として2ラウンドのみ出場した。2002年にはヤマハのマシンを駆ってブリティッシュスーパーバイク選手権に出場、2回3位表彰台を獲得してシリーズ8位に入った。
現在はロードレース世界選手権の公式コメンテーターを務めている
主なレース戦績
シーズン
|
バイク
|
出走
|
優勝
|
表彰台
|
PP
|
FL
|
ポイント
|
シリーズ順位
|
1989年
|
|
4
|
0
|
0
|
0
|
0
|
0
|
-
|
1990年
|
ヤマハ
|
2
|
0
|
0
|
0
|
0
|
12
|
39位
|
1991年
|
|
2
|
0
|
0
|
0
|
0
|
0
|
-
|
1992年
|
ホンダ
|
9
|
0
|
0
|
0
|
0
|
12
|
39位
|
1993年
|
ドゥカティ
|
6
|
0
|
0
|
0
|
1
|
32
|
21位
|
1994年
|
ホンダ
|
22
|
0
|
0
|
0
|
0
|
153
|
5位
|
1995年
|
ホンダ
|
24
|
0
|
2
|
0
|
0
|
187
|
6位
|
1996年
|
カワサキ
|
24
|
0
|
1
|
0
|
0
|
180
|
7位
|
1997年
|
カワサキ
|
24
|
0
|
2
|
1
|
1
|
234
|
5位
|
2000年
|
ホンダ カワサキ
|
6
|
0
|
0
|
0
|
0
|
20
|
30位
|
合計
|
|
123
|
0
|
10
|
1
|
2
|
830
|
|
脚注