ゲルトルート・フォン・ザクセン(ドイツ語:Gertrud von Sachsen, 1030年ごろ - 1113年8月4日)は、ホラント伯フロリス1世の妃、のちフランドル伯ロベール1世の妃。また、1061年から1067年まで、幼年の息子ディルク5世のためホラントの摂政を、1086年から1093年まで夫の不在の間にフランドルの摂政をつとめた。
生涯
ゲルトルートはザクセン公ベルンハルト2世と、ハインリヒ・フォン・シュヴァインフルトの娘アイリカの間に生まれた。
1050年ごろ、ホラント伯フロリス1世と結婚した。1061年に夫が死去したのち、息子ディルク5世がホラント伯となり、ゲルトルートが摂政をつとめた。
ディルク5世がホラント伯位についたとき、ユトレヒト司教ウィレム1世はこの状況を利用して、ホラントの領地を占領した。ゲルトルートとディルク5世はフリースラントに退き、ウィレム1世は領地を占領し続けた。
1063年、ゲルトルートはフランドル伯ボードゥアン5世の次男ロベールと再婚した。この結婚により、ディルク5世にスヘルデ川西岸のフリースラントを含むフランドル帝国領が領地として与えられた。
その後、夫ロベールはゲルトルートとともに幼年のディルク5世の摂政をつとめた。また、フランドル伯となったロベールが1086年から1093年までエルサレムに向かった際には、夫の留守の間フランドルの摂政もつとめた。
子女
ホラント伯フロリス1世との間に7人の子女をもうけた。
- アルベール(1051年ごろ生) - リエージュの司祭
- ディルク5世(1052年ごろ - 1091年) - ホラント伯
- ピエール(1053年ごろ生) - リエージュの司祭
- ベルタ(1055年ごろ - 1093年) - フランス王フィリップ1世と結婚
- フロリス(1055年ごろ生) - リエージュの司祭
- マティルド(1057年ごろ生)- クロスタラート伯アダルベルト1世・フォン・サッフェンブルクと結婚
- アデル(1061年ごろ生) - ギネ伯ボードゥアン1世と結婚
フランドル伯ロベール1世との間に5人の子女をもうけた。
脚注
参考文献
- Nicholas, Karen S. (1999). “Countesses as Rulers in Flanders”. In Evergates, Theodore. Aristocratic Women in Medieval France. University of Pennsylvania Press
- Rider, Jeff (2013). “Vice, Tyranny, Violence, and the Usurpation of Flanders (1071) in Flemish Historiography from 1093 to 1294”. Violence and the Writing of History in the Medieval Francophone World. Boydell & Brewer