ケダイネイ (リトアニア語 : Kėdainiai [kʲeːˈd̪ä̂ˑɪ̯nʲɛɪ̯ˑ] 発音 [ヘルプ /ファイル ] )は、リトアニア 中部の都市 。リトアニアの都市の中でも最も古い都市の一つ。ネヴェジス川 (Nevėžis) 沿いに位置している。人口 は30,835人(2009年 現在)。
1372年 のリヴォニア年代記『Hermann de Wartberge』で初めてこの都市について言及されている。街の旧市街地の歴史は17世紀にまでさかのぼる[ 1] 。
都市名
その他、Kidan、Kaidan、Keidany、Keydan、Kuidany、Kidainiaiとも表記される。[ 3]
歴史
中世
ケダイネイに向かうスウェーデン軍の行進
17世紀にポーランド・リトアニア共和国 とスウェーデン の間で戦争が起きた大洪水時代 には、ケダイネイは戦場となった。1655年 にはケダイネイ城にて、ヤヌシュ・ラジヴィウ らによってスウェーデンとのあいだにケダイネイ合同 が結ばれた。これはポーランド・リトアニア共和国 を否定しリトアニアとスウェーデン との国家連合を目指すものであったが、結局は失敗に終わっている。現在ではラジヴィウ家 の城はほとんど残っていないが、1631年 に建てられたカルヴァン派 の地下聖堂 には、クシシュトフ・ラジヴィウ やその息子ヤヌシュ の墓を含む、一族の墓が残されている。
16世紀後半から17世紀にかけて、アンナ・ラジヴィウ の改宗に伴い、スコットランド からプロテスタント が多く到来した。プロテスタントは19世紀半ばまで街で影響力を持っていた[ 4] 。
また土地の風習により、街を訪れる者は街の建設に用いるための石を持ってくるよう求められた[ 1] 。
近代
1940年まで、約300人の生徒や教師をケダイネイからミル(現在のベラルーシに位置する街)のイェシーバー に輩出してきた。しかし、ナチ・ドイツ がリトアニア侵攻すると、1941年7月には「83人のユダヤ人男性、12人のユダヤ人女性、14人のロシア人共産主義者、15人のリトアニア人共産主義者、[そして]1人のロシア人ソヴィエト人民委員」が殺された[ 5] 。
冷戦 期にはケダイネイに空軍基地が作られ、ソヴィエトの空軍輸送部隊の施設が置かれた。
長年、ケダイネイでは化学処理や食品加工などの産業が栄えてきた。1963年1月にはケダイネイ化学工場が操業しているが、硫酸を大量に排出したため1980年代には抗議運動に発展した[ 6] [ 7] 。
人口
1833年 - 2,597人
1897年 - 6,113人
1923年 - 7,415人
1931年 - 7,761人
1939年 - 8,662人
1959年 - 10,580人
1970年 - 19,795人
1976年 - 26,600人
1979年 - 27,886人
1989年 - 33,840人
2001年 - 32,048人
宿泊施設
著名人
姉妹都市・提携都市
ギャラリー
旧市街地にある家
旧市街地
旧市街地(セノイ通り)
街の中心にあるネヴェジス川
脚注
関連項目
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外部リンク