初代ボイン子爵グスタヴァス・ハミルトン(英語: Gustavus Hamilton, 1st Viscount Boyne PC PC (Ire)、1642年 – 1723年9月16日)は、アイルランド王国の軍人、政治家、貴族。
フレデリック・ハミルトン閣下(英語版)(初代ペイズリー卿クラウド・ハミルトン(英語版)の五男)とシドニー・ヴォーン(Sidney Vaughan、サー・ジョン・ヴォーンの娘)の三男として生まれた[1]。ダブリン大学トリニティ・カレッジで教育を受け、1677年にD.C.L.(英語版)の学位を修得した。
イングランド陸軍(英語版)の大尉であり、1685年にジェームズ2世が即位するとイングランド枢密院(英語版)の枢密顧問官に任命された[1]。名誉革命では1689年にウィリアム3世によってハミルトンの歩兵連隊(英語版)隊長に任命され、デリー包囲戦(英語版)とアスローン強襲に参加した後にアスローン総督に就任した[1]。ボイン川の戦いでは乗っていた馬を射殺され、自身もあと一歩のところで死を逃れた[1]。その後、1696年に准将に[1]、1704年に少将に昇進した[2]。また、1691年8月31日から1710年1月10日までと1716年2月22日から1723年9月16日までアルスター副提督(英語版)を務めた[3]。
1692年から1713年までドニゴール・カウンティ選挙区(英語版)の代表としてアイルランド庶民院議員を務めた後、ストラバーン選挙区(英語版)に転じ、1715年9月30日にアイルランド貴族のスタックアランのハミルトン男爵に叙される[4]まで務めた。1717年8月20日、同じくアイルランド貴族のボイン子爵に叙された[5]。また、1710年にはアイルランド枢密院(英語版)の枢密顧問官に任命された。
1723年に死去、息子のフレデリック・ハミルトンが1715年に死去していたため孫グスタヴァスが爵位を継承した[6]。
サー・ヘンリー・ブルック(Sir Henry Brooke)の次女エリザベス(1721年12月28日没)と結婚[6]、3男1女を儲けた[7]。