アイスレーベンで生まれた。父親はプロテスタントの牧師のヨハン・アントン・トリニウス (Johann Anton Trinius)、母親はホメオパシーの創始者とされるザムエル・ハーネマンの妹である。6歳で父ヨハンを失い、母親は教師と再婚した。1792年からイェーナ大学、ハレ大学、ゲッティンゲン大学で医学を学び、また植物学にも興味を持った。1802年に医師の資格を得た後、バルト地域に移り、ラトビアのHasenpoth(現Aizpute)で詩人のウルリヒ・フォン・シュリッペンバッハ(Ulrich von Schlippenbach, 1774年 - 1826年)らと知り合った。1808年にヴュルテンベルク家の公爵夫人アントワネット (Antoinette von Württemberg) の個人医となった。植物学の研究を行いながら、公爵夫人が没するまで、治療のためにドイツとロシアの間を何度も旅した。
1837年から1838年の間、ドイツ各地の植物園を巡り旅行を行ったが、1837年にミュンヘンで、1838年にドレスデンで脳梗塞を起こした。1844年に心不全によりサンクトペテルブルクで死去。彼の収集したコレクションは、自らが創立者の一人である帝国サンクトペテルブルク植物園(現在のコマロフ植物研究所:Ботанический институт им. В.Л.Комарова РАН)に寄付された。