1910年、彼は最初の著述『人格と教育』(Personlichkeit und Kultur) を出版。1917年には『ドイツの国家理想』(Die deutsche Staatsidee)、1920年には『学問の革命』(Revolution der Wissenschaft)、そして1922年に至り、後に自ら主著という『教育の哲学』(Philosophie der Erziehung) が出る。この本により、エルンスト・クリークは、ハイデルベルク大学で名誉博士号を取得した。
翌1932年、クリークはドイツ国家社会主義教員同盟の一員となり、併せてナチ党員となる。その年、彼はフランクフルト・アム・マインのフランクフルト大学の総長となる[1]。彼は同大学において哲学と教育学の教授職をも担当した。この地位に彼は第二次世界大戦の終結まで留まったが、大戦後にアメリカ軍によってその職を解かれ、バイエルン州モースブルク・アン・デア・イーザル (Moosburg an der Isar) の収容所に送られた。1947年に収容所内にて没。