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イラクリー・ツェレテリ(1917年)
イラクリー・ツェレテリ (Irakli Tsereteli 、グルジア語 : ირაკლი გიორგის ძე წერეთელი 、ロシア語 : Ира́клий Гео́ргиевич Церете́ли 、1881年 -1959年 )は、ロシア の革命家 、政治家 。グルジア 人。メンシェヴィキ 中央派として臨時政府 支持の立場を取り、臨時政府で逓信大臣(郵政・通信大臣)を務めた。
経歴
1881年グルジアの没落貴族の家に生まれる。父ゲオルギー・ツェレテリは、グルジアの著名な作家で、著述業のかたわら、ナロードニキ 運動に参加した人物。1900年 モスクワ大学 法学部 に入学し、法律家を目指すが、学生運動に参加し、社会主義 のサークルに加わった。1902年 逮捕され、イルクーツク に流刑となる。
1903年 グルジアのチフリス(現在のトビリシ )に戻り、ロシア社会民主労働党 グルジア委員会に参加する。党カフカス同盟第2回大会(英語版では、ロンドン大会)では、ユーリー・マルトフ を支持し、メンシェヴィキの立場を明らかにし、レーニン 及びボリシェヴィキ に反対する演説を行った。1904年 ドイツ に渡り、ベルリン大学 法学部に入学するが、翌1905年 病気のためグルジアに帰国する。
1907年 国会(ドゥーマ )に立候補し、当選する。当選後、ロシア社会民主労働党国会議員団長に選出されるが、多くの同志達とともに逮捕され、イルクーツクで懲役5年の刑を受ける。1913年 釈放され、イルクーツク近郊に住むようになる。ツェレテリは、フョードル・ダン ら同志とともに『シベリア時評』誌を発行し、1914年 第一次世界大戦 が勃発すると、ツェレテリは、同誌上で、1915年 開催されたツィンメルヴァルト会議 に、賛成の立場を取り、マルトフが主張した「民族自決に基づいた、併合と賠償を伴わないブルジョア民主主義的な平和」を支持し自ら「シベリア・ツィンメルヴァルト派」を称した。
1917年 2月ロシア革命 (二月革命 )が起こると、3月にペトログラード に帰還し、メンシェヴィキの指導部の一員となる。6月に開催された第1回全露ソビエト 大会でソビエト執行委員、全露中央執行委員会副議長に選出される。ツェレテリは、ロシア革命(二月革命)をブルジョワ市民革命と見なし、社会主義革命の前提として、立憲民主党 (カデット )などのブルジョワ自由主義政党と社会主義諸政党の連立を指向する立場であった。
また、ダン、ニコライ・チヘイーゼ とともに「祖国防衛派」の立場から、戦争継続に賛成した。7月臨時政府首班がリヴォフ公 からケレンスキー に交代し、ツェレテリは現実的な行政手腕を見込まれて逓信大臣として入閣した。しかし、病弱なため、すぐに辞任し、9月にグルジアに帰郷し療養生活に入っている。
11月レーニンによってソビエト政権が樹立されると、ツェレテリはペトログラードのメンシェヴィキ指導部に戻る。しかし、マルトフらメンシェヴィキ左派と対立が続いていたのは、将来に禍根を残す結果に繋がった。ツェレテリは、ボリシェヴィキの暴力革命に反対し、憲法制定会議擁護同盟発起人に名を連ねる。
1918年 1月の憲法制定議会では、ツェレテリは、メンシェヴィキを代表し、ボリシェヴィキの「後進国に社会主義経済を導入するというナロードニキ的な企て」に対して批判している。ボリシェヴィキによって憲法制定議会が武力で解散されると、グルジアに戻り、「グルジア民主共和国 」を樹立した。グルジア民主共和国は、西欧の社会民主主義グループからも支持を受け、ザカフカス 統一を目論む。
しかし、1921年 赤軍 によって、同共和国は瓦解。カフカス諸国も次々にボリシェヴィキの手に堕ちた。ツェレテリはヨーロッパに亡命し、グルジア社会民主党を代表し社会主義インターナショナル に参加した。1948年 にフランス からアメリカ に移る。1959年死去。77歳。
脚注