80年代を通して初期のヒップホップ音楽、文化を広げる中心となった。彼はブレイクビーツのDJを始めた3人のうちの1人で、特に「ヒッフホップ文化の祖父」「ヒップホップ文化のアメン=ラー(神)」もしくは「エレクトロファンクの父」と呼ばれる。また、ギャングのブラック・スペード団を音楽文化集団ユニバーサル・ズールー・ネイションに吸収させ、ヒップホップ文化を世界に広めたとして知られている。2007年9月27日にはRock and Roll Hall of Fameの候補として取り上げられた。
同年バンバータとソウルソニック・フォースは生バンド演奏をやめて、先端技術(電子音楽)を用いるようになる。ドイツのクラフトワークに影響を受ける。アーサー・ベイカーがプロデュースし、ジョン・ロビーがシンセサイザーを演奏した『ビート・ボックス』を提供してもらう。この変更が大ヒット曲『プラネット・ロック』を生みし、「エレクトロ・ブギー」と呼ばれるラップとダンスミュージックの流れをつくることになる。これによってバンバータは、自身の音楽レーベルを設立し『Time Zone Completion』をリリース。「ターンテーブリズム」(楽曲の作者が意図的にターンテーブルを操り、音楽作りの主体をターンテーブルをつかっていること)ジャンル化し、1990年代の「エレクトロニカ」へとつながっていった。
クール・ハークやKOOL DJ DEEの影響と、ディスコ・キング・マリオからの音楽装置の提供があり、サウス・ブロンクスの各地でパーティーを主催した。そしてスティーブンソン高校やブロンクス・リバー公民館でMr. Biggs、クイーン・ケンヤ、カウボーイなどと演奏を始める。後にブロンクス・リバー団体(後に「ザ・オーガナイゼーション」と改名)を設立する。元々ギャング出身のバンバータは、ギャング団を脱退したメンバーが多く、彼のヒップホップ文化は様々な場所に広まっていった。
1982年にはバンバータは「プラネット・ロック」で初めてのヒットを出すことに成功した。 ヒップホップアーティストのFab Five Freddyは、ニューヨークの白人地域にあるクラブ系列のManhattan New Wave Clubsで流す音楽を思考中に、バンバータを招待し、The Mudd Clubで演奏させた。これはバンバータにとって、初めて白人客の前で演奏する機会だった。彼の演奏するパーティーは、客数が増加していった。
1983年には『Looking for the Perfect Beat』と『Renegades of Funk』をソウルソニック・フォースと共にJean Karakos's Celluloidレコードからビル・ラズウェルのプロデュースでリリース。このレコード会社に彼は2つのグループ Time ZoneとShangoを結成させる。 『Wildstyle』を Time Zoneと共にリリース。1984年には『World Destruction』をパンク・ロックのジョン・ライドンとTime Zoneと共にリリースする。
1988年には『Afrika Bambaataa and Family』をキャピトル・レコードからリリース。バンバータはFamily(ノーナ・ヘンドリックス、UB40、ボーイ・ジョージ、ジョージ・クリトン、ブーツィー・コリンズ、 イエローマン)とは3年越しに『Funk You』(1985年)や 『Beware (The Funk Is Everywhere)』 (1986年)をリリースしている。 1986年にバンバータはアーティストのAtlanta Ga. (MC SHY Dの紹介)を発掘し、後にCriminalレコードのアーサー・ベイカーと契約を結ぶ。 グループ名はHarmony and LGで、初シングルは『Dance To The Drums / No Joke』 さらにバンバータは暴力停止運動に参加して、他のヒップホップアーティストと12インチシングルレコード『Self Destruction』をつくり、1989年3月のthe Hot Rap Singles Chartのヒットとなる。このシングルで40万ドルを貢献する。
1990年代以降の活動
1990年、バンバータはLIFEの「20世紀で一番大切なアメリカ人」の1人として取り上げられる。さらに反アパルトヘイト運動の一環として『Hip Hop Artists Against Apartheid』をWarlockレコードからリリース。ジャングル・ブラザーズとチームを組み、『Return to Planet Rock (The Second Coming)』を作成。Gee StreetレコードのJohn Bakerと協力し、the African National Congress (ANC)の為にロンドンのウェンブリー・スタジアムでネルソン・マンデラ解放を記念したコンサートを計画。このコンサートを通して、イギリスとアメリカのラッパーの団結、さらにはヒップホップファンにネルソン・マンデラ、ウィニー・マンデラ、ANCの存在を明確にした。この結果『Ndodemnyama (Free South Africa)』のリリースはANCに3万ドルを寄付するという大きな役目をはたす。これに留まらず、バンバータはイタリアへの募金も募る。
90年代半ばからバンバータはWestBam (who was named after him)とコラボレーションして、彼の電子音楽の原点に戻り、2004年遂に『Dark Matter Moving at the Speed of Light』を完成させる。2000年にはRage Against the Machineがバンバータのカバー曲『Renegades of Funk』を彼らのアルバム『Renegades』に挿入。
同年彼はLeftfieldとコラボし初シングル『Leftfield's Rhythm and Stealth』からの1曲「Afrika Shox」(映画『バニラ・スカイ』でも使われる)を出す。
2006年、イギリス人歌手Jameliaのアルバム『Walk With Me』の1曲 『Do Me Right』に特別出演する。さらにMekonのアルバム『Some Thing Came Up』の『D-Funktional』にも特別出演、The Bassheads (Desa Basshead).の『Is There Anybody Out There』の作詞と活躍は続く。
俳優としては『Kung Faux』で数々のナレーションを手がけた。バンバータは6周年記念Independent Music Awardsで審査員を手がけ、2007年9月27日にはThe 2008 Rock and Roll Hall of Fame Inductionsの候補者9人の内の1人に選ばれる。2007年12月22日、彼はケンタッキー州コビングトンでthe First Annual Tribute Fit For the King of King Recordsに特別出演した。2016年4月には、ニューヨークの政治活動家のロナルド・サベージが、15歳の時に虐待を受けたとしてバンバータを告発した[10]。さらに3人の男性からも虐待を指摘された[11]。バンバータはローリング・ストーン誌上で虐待を否定したが、結局、ズールー・ネイションのリーダーを辞めざるを得なくなってしまった[12]。