『アイトナ侯爵フランシスコ・デ・モンカダ騎馬像』(アイトナこうしゃくフランシスコ・デ・モンカダきばぞう、蘭: Ruiterportret van Don Francisco de Moncada, 仏: Portrait équestre de Don Francisco de Moncada, 英: Equestrian Portrait of Francisco de Moncada)は、バロック期のフランドル出身のイギリスの画家アンソニー・ヴァン・ダイクが1634年ごろに制作した肖像画である。油彩。ヴァン・ダイクによる最も優雅な騎馬肖像画の1つで、白馬に騎乗する第3代アイトナ侯爵およびオスナ伯爵のドン・フランシスコ・デ・モンカダ(英語版)を描いている。現在はパリのルーヴル美術館に所蔵されている[1][2][3][4]。またバレンシア美術館とマドリードのリリア宮殿(英語版)に本作品の複製が所蔵されている[5][6]。
騎馬肖像画の原型は有名なマルクス・アウレリウス騎馬像(英語版)やマルクス・ノニウス・バルブス騎馬像など、古典古代まで遡る騎馬像に基づいている。ヴァン・ダイクはプラド美術館所蔵のティツィアーノ・ヴェチェッリオの作品『カール5世騎馬像』(Ritratto di Carlo V a cavallo)に触発されたと考えられているが、より直接的にはルーベンスが1603年に制作した同美術館所蔵の『レルマ公爵騎馬像』(Ruiterportret van de hertog van Lerma)に大きな影響を受けている。ヴァン・ダイクとルーベンスの関連性はよく知られており、画家が師の肖像画の構図を知っていたことは確実とされている。実際に本作品とルーベンスの作品はモデルと馬、画面左の木の配置などで一致している[8]。異なる点としては『レルマ公爵騎馬像』の背景から戦争を暗示させる軍隊を除去していることが挙げられる。しかしそれによって本作品はモデルの軍人的側面にもかかわらず、美しい草原の中を穏やかに散歩する情景に変化している。これはアイトナ侯爵の平和主義的な感情と非常によく一致しており、表情の中にモデルの人間性を表現する方法を知っていた画家の心理的浸透力を示している。また自然の美しさを楽しむことは、イギリス人の風景画に対する好みとよく一致している[8]。
ルーベンスと同様にヴァン・ダイクはいくつかの異なる構図の騎馬肖像画を制作したが、本作品と同様の構図はすでに1627年に『グロッポリ侯爵アントン・ジュリオ・ブリニョーレ=サーレ騎馬像』(Ruiterportret van Anton Giulio Brignole-Sale)で用いており、本作品の前年には『馬上のチャールズ1世とサン・アントワーヌの領主の肖像』(Portret van Charles I te paard met M. de St Antoine)を制作した。また現存していないが、ヴァン・ダイクは構図を左右反転してフェリペ4世の肖像画を制作した[8]。
描かれた人物がはっきりしているにもかかわらず、初期の来歴は不明のままである。はじめて記録に現れるのは、第6代カルピオ侯爵ルイス・メンデス・デ・アロ(英語版)の妻、カタリナ・フェルナンデス・デ・コルドバ・イ・アラゴン(Doña Catalina Fernández de Córdoba y Aragón, Marquesa del Carpio)の1648年の目録である。カタリナの死後、肖像画は夫である第6代カルピオ侯爵の手に渡り、さらにその死後[10]、彼の息子で美術収集家として知られる第7代カルピオ侯爵ガスパール・メンデス・デ・アロ(英語版)に相続された[2][10][11]。ガスパールのもとでは1651年と1689年の目録に記載されている[2][11]。1651年の目録では本作品がアイトナ侯爵の肖像画であることが記され、その説明は本作品の特徴と一致している。また本来の画面は現在よりも大きかったことがわかる。1689年の目録では肖像画がヴァン・ダイクの作品であり、55,000レアルと評価されている。この推定評価額は目録の中で最も価値が高く、ベラスケスの『ラス・メニーナス』(Las Meninas)の当時の評価額4,000レアルを超えて、ルーベンスの『愛の園』(De tuin der liefde)の評価額55,000レアルに匹敵している[11]。その後、肖像画はローマの貴族で教皇ピウス6世の甥にあたるルイージ・ブラスキ・オネスティ(英語版)のコレクションに加わった[2][11]。その入手ルートは不明であるが、おそらくガスパールが1676年3月からスペイン国王カルロス2世の大使としてローマに滞在し、1687年にパレルモで死去したことと関連している。ガスパールは所有するコレクションの一部をイタリアに持ち出し、別の絵画を入手するためにいくつかの絵画を処分している。そこで本作品も同様にイタリアに運ばれたのち、国外の収集家に売却されたと考えられる[11]。いずれにせよ、肖像画は1798年までブラスキ家にあったが、ナポレオンによって教皇領全体が侵略されたことにより肖像画は略奪され、パリに運ばれたのちルーヴル美術館に収蔵された[2][11]。
複製
ヴァン・ダイク自身による2点の複製が知られている。バレンシア美術館のバージョンは高品質の複製で、おそらくバレンシアの侯爵の一族のもとに残されていたものと考えられている。18世紀にバレンシアの軍人マヌエル・モンテシノス・イ・モリーナ(スペイン語版)のコレクションに記録されている。1941年に彼の子孫であるモンテシノス・チェカ(Montesinos Checa)とトレノール・モンテシノス(Trénor Montesinos)によって美術館に寄贈された[6][12]。リリア宮殿のバージョンはサイズがやや小ぶりで、品質も良くない[10]。本作品と同じく第6代カルピオ侯爵ルイス・メンデス・デ・アロのコレクションに由来するようである。侯爵が死去した1661年に作成された目録に、ヴァン・ダイクによる「もう一つの馬に乗ったアイトナ侯爵」(Otra del Marqs de Aytona a caballo)、さらに息子ガスパールの1689年の目録にも同様に記録されている。この作品がのちにアルバ公爵のコレクションに加わったと考えられている[10]。