父亲是太宰治,母亲是父亲代表作「斜陽」的主人公「かず子」的参考太田静子。当时已有妻儿的太宰与立志成为文科生的静子交往,育有一女。「治」の一字を与えて認知した。一年后太宰在玉川上水自杀,以後は炊事婦や寮母など働きづめで生計を立ててくれた静子や静子の兄弟らの愛情・支援のもと育つ。私立青葉女子学園高等学校[2](東京都世田谷区世田谷。1988年頃に廃校)を経て明治学院大学文学部(英米文学)卒業。
1967年、紀行文『津軽』で婦人公論読者賞を受賞。その後刊行した『手記』は、吉永小百合主演でラジオ化、映画化された(『斜陽のおもかげ』,1972年、110枚の小説「私のハムレット」を『新潮』に載せたが、一行の批評も出なかった(『心映えの記』)。
幼い頃から静子の影響で絵画に親しみ、それが元で1976年からNHK『日曜美術館』の初代アシスタントを3年間務める。美術に造詣が深く、多くの美術書やエッセイ、フィクションを著する。
1982年11月24日、其母静子去世(享年69)。1986年、母の思い出をつづった『心映えの記』で第1回坪田譲治文学賞受賞[3]。同作品で、直木賞の候補にもなった[4]。
私生活では長く独身を通していたが、これは太田自身の出生の経緯や母・静子の肝臓癌発覚による看護・死去による。
30代後半に編集者である知人の紹介で見合い結婚をし、1987年女儿(万里子)出生2004年离婚。これに伴い、現在は文筆業を中心に再び盛んに活動している。