長谷川 洋子(はせがわ ようこ、1925年(大正14年)11月[1] - )は、日本の実業家。漫画『サザエさん』の作者である長谷川町子、長谷川町子美術館の2代目館長である長谷川毬子の実妹。
経歴
1925年(大正14年)、福岡市にて誕生。8歳の時に一家で上京。香蘭女学校(現在の香蘭女学校中学校・高等学校)を経て[2]、東京女子大学国文科に入学後、洋子の母が長姉毬子を通じて洋子の作文を菊池寛に見せ、作文を見た菊池は、「大学なんかやめてボクの社に来なさい」と菊池に勧められ、大学を中退し、菊池に弟子入りし無試験で文藝春秋に入社する[3]。入社して間もなく「肺浸潤」に罹り[4]、文藝春秋を退職。終戦を挟み、療養生活に入る。その後、一家は福岡に疎開する。
戦後、病気が治り、体も順調に回復し、自宅近くの百道の浜に姉の町子と散歩に出るようになった。町子はここで『サザエさん』の構想を練った[5]。その後、姉とともに姉妹社を設立して漫画『サザエさん』の出版業務に携わる。1985年(昭和60年)彩古書房を設立、2003年(平成15年)に解散[6]するまで児童心理学の本を数多く出版する。
3姉妹で長年同じ家に住んでいたが、新居を建てることになったのを契機に姉たちから独立[7][注釈 1]。洋子自身の言によると、これがきっかけとなって「姉達との間に溝ができ」、町子・毬子と絶縁状態に陥った[8]。町子の最後の作品となった『サザエさん旅あるき』(1987年(昭和62年)『朝日新聞』に連載)にも洋子はほとんど登場しなかった[注釈 2]。1987年(昭和62年)に三姉妹の母・貞子が死去した[9]が、洋子も葬儀に参列したかは不明。1992年(平成4年)5月に町子が死去した際、毬子は「洋子には絶対、知らせてはならない」と部下に厳命し、見かねた部下が内密に知らせたという[10]。そのこともあり、洋子一家は遺産相続等の一切の権利を放棄したという。この諍いの明確な原因は定かではない[注釈 3]が、ノンフィクション作家の工藤美代子は、洋子の語る内容だけでは毬子・町子の怒りの激しさに説明がつかないこと、姉妹社の経理を洋子が担当していたことを指摘し、関係者への取材を元に「姉妹の間で財産を巡る争いが起こったのではないか」と推測している[8]。
2012年(平成24年)に毬子が94歳で死去すると、長谷川3姉妹の唯一の存命者となった(2022年(令和4年)7月現在)。姉妹の中では唯一、子供をもうけている。
著書
- 『サザエさんの東京物語』(朝日出版社、2008年4月)(文春文庫、2015年3月)(電子版(底本:朝日出版社版)2015年2月)
家族
新聞記者の鹿島隆と結婚し、2女を儲ける。(『サザエさんの東京物語』の「長谷川家・年表」より)
夫は1961年(昭和36年)に35歳で死去し、母子ともに長谷川姓に復する。娘2人の名前は、漫画『サザエさんうちあけ話』にもしばしば登場している。長女・隆子は上智大学文学部フランス文学科を卒業後、ソルボンヌ大学に留学し、のちにはフランス・パリに移住し、「長谷川たかこ」の名で文筆家として活動している。著書に『パリは恋愛教科書』『ワカメちゃんのパリのふつうの生活』『ワカメちゃんがパリに住み続ける理由』がある。隆子の二人の子供のうち、娘はパリ在住のイラストレーターのカミーユ=彩瑛・長谷川・ロワイエ(Camille = Saé Hasegawa Royer,1997- )[8] 。
長谷川洋子を演じた人物
長谷川洋子もしくは、長谷川洋子をモデルとしたキャラクターを演じた人物
脚注
注釈
- ^ 『サザエさんの東京物語』pp.190及び同書所収の「長谷川家・年表」によれば、1981年(昭和56年)から1983年(昭和58年)頃の出来事。
- ^ pp.34の買出しの話で1コマだけ出ている(2コマ目)。『サザエさんの東京物語』pp.167-170によると町子と洋子一家で母を海外旅行させた話も、『サザエさん旅あるき』pp.51-57では町子が1人で付き添っている形で描かれている。
- ^ 洋子は自著『サザエさんの東京物語』で絶縁に至る経緯を僅かに語っているが、当事者である以上はその発言を一概に信頼することはできない[8]。
出典
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