自由民主国民党(じゆうみんしゅこくみんとう、オランダ語: Volkspartij voor Vrijheid en Democratie、略称:VVD[2])は、オランダの自由主義政党。自由民主人民党とも訳される[3]。
VVDは「民間企業の最も声高な支援者」と呼ばれる[要出典]。また、社会自由主義を志向する民主66と対比して、市場自由主義(新自由主義、Neoliberalism)志向であるとしばしば受け取られている。
自由主義インターナショナル、欧州自由民主改革党に加盟している。
歴史
結党から1960年代前半まで
VVDは1948年1月24日、自由党(1946~48年)と、労働党(PvdA)に加わっていた自由主義左派が合流して結成された[4][5]。初代党首にはピーター・ウード(英語版)が就任した。
1948年から1952年まではウィレム・ドレース内閣の連立与党(PvdA、カトリック人民党(英語版)(KVP)、キリスト教歴史同盟(英語版)(CHU))に加わった。1952年の第二院(下院)選挙では1議席増となったが、連立組み換えで野党となった。1959年の第二院選挙後にはKVPのヤン・デ・クヴァイ内閣の連立与党(KVP、反革命党(英語版)(ARP)、CHU)に加わった。ピーター・ウードは1963年に政界引退を表明し、党首を辞任した。
1963年の第二院選挙では議席を減らしたものの、同じ連立与党によるヴィクトル・マリネン内閣に参画した[6]。1965年にマリネン内閣が崩壊すると、続くヨー・カルス内閣とイェレ・ゼイルストラ内閣では野党となった。
1960年代までのVVDは、いわゆる「柱状化社会」の中で他の自由主義的な組織(オランダ経団連(VNO)、放送局(AVRO(英語版))等)と緩やかなつながりを持ち、勢力を維持した。
1960年代後半以降
1966年には、VVDのアムステルダム市議会議員だったハンス・グライテルス(英語版)らのイニシアチブによって民主66(D66)が設立され、党内左派グループや青年組織からの参加者が生じた。こうした政治構造の変化を受けて、1971年に党首になったハンス・ウィーゲル(英語版)は労働者階級や中間層への支持の拡大を図った。
1972年の第二院選挙では6議席増の22議席を得た。PvdA等の連立によるヨープ・デン・アイル内閣を野党の立場から批判し、1977年の第二院選挙では更に6議席を増やして28議席とした。選挙後に、キリスト教民主アピール(CDA)とVVDの2党の連立により第1次ドリース・ファン・アフト内閣を成立させた。1981年の第二院選挙では2議席減の26議席となり、連立与党の議席は過半数割れとなり、第2次・第3次ドリース・ファン・アフト内閣では連立与党から外れた。翌年、ハンス・ウィーゲルは党首を辞任した[7]。
この間の党勢拡大の結果、1982年には党員数が10万2888人と党史上最多を記録している[1]。
新たに党首となったエド・ナイペルス(英語版)の下で、1982年の第二院選挙では10議席増の36議席を獲得した。CDAと共に第1次ルード・ルベルス内閣を成立させた。1986年の第二院選挙では9議席減の27議席に留まったが、引き続きCDAと第2次ルード・ルベルス内閣を維持した。ナイペルスは入閣に伴い党首を引き、Joris Voorhoeveが党首となった[8]。
1989年には、環境対策の総合計画におけるガソリン税の増税やマイカー通勤者の通勤費非課税措置の上限額引下げをめぐって、VVDと内閣が対立して内閣総辞職に至った[8][9]。その後行われた第二院選挙では5議席減の22議席となった。第3次ルベルス内閣は連立与党をPvdAに変えたため、VVDは野党となった。
1990年代以降
1990年にはフリッツ・ボルケスタイン(英語版)が党首になった。1994年の第二院選挙でVVDは議席を9増やして31議席とすると、PvdAのウィム・コック首相率いる「紫連立(英語版)」に加わった。この連立内閣の下で規制緩和や、安楽死や売春の合法化などのリベラルな改革が進められた[10]。1995年の地方議会選挙で大勝し、第一院で初めて第1党となり、1998年の第二院選挙では38議席まで議席を伸ばした。ボルケスタインは欧州委員に就任するために党首を退いた。後任にはハンス・ダイクスタル(英語版)が就任した[11]。
2000年代以降
2002年の第二院選挙では、選挙前には優勢が予想されていたものの、ピム・フォルタインリスト(英語版)(LPF)の台頭とピム・フォルタイン殺害事件の影響などから、24議席まで議席数を減らした。ハンス・ダイクスタルは党首を退き、ヘリット·・ザルム(英語版)に交代した[12]。選挙後にはCDAのヤン・ペーター・バルケネンデを首班とする第1次バルケネンデ内閣の連立与党にLPFと共に加わった。翌2003年にLPFの党内の混乱により内閣が瓦解すると、同年の第二院選挙では28議席まで議席を回復させ、第2次バルケネンデ内閣の連立与党(CDA、D66)となった。
2004年にはVVDの下院議員のヘルト・ウィルダースが、トルコの欧州連合加盟をめぐる党内対立などから離党した(ウィルダースは後に自由党(PVV)を結成する)。
2006年には地方議会選挙の敗北を契機に、新たにマルク・ルッテが党首に就任した。同年にはVVD所属のアヤーン・ヒルシ・アリ下院議員の国籍問題を契機にD66が連立を離脱したため[12]、(第3次)バルケネンデ内閣は少数与党となった。VVDは同年の第二院選挙では22議席しか獲得できず、翌年発足した第4次バルケネンデ内閣には加わらず、野党となった。
2010年代以降
2010年の第二院選挙で31議席を獲得し、結成後初めて第二院で第1党となり、CDAとの連立とPVVの閣外協力による第1次ルッテ内閣を成立させた。2012年の第二院選挙では41議席に伸ばし、連立相手をPvdAに変えて第2次ルッテ内閣を形成した。2017年の第二院選挙では33議席に減らしたが第1党を維持し、7か月にわたる連立交渉を経てCDA、D66、キリスト教連合(CU)との4党連立による第3次ルッテ内閣を成立させ、政権を維持した[13]。
2021年の第二院選挙では34議席を得て第1党を維持し、9か月の連立協議を経て、同じ連立与党による第4次ルッテ内閣が成立した[14][15]。
2023年8月14日にディラン・イェスィルギョズ=ゼヘリウス(英語版)司法相が新党首に就任[16]。同年11月22日に執行された第二院選挙では10議席減らし24議席と敗北し、極右の自由党(37議席)、労働党とグリーンレフトが組む左派連合(25議席)にも抜かれ議会内第3勢力に転落した[17]。
イデオロギーと政策
自由民主国民党 (VVD) は自由主義の理念の下に設立され、市場の自由をオランダの政党の中で最も熱心に支持してきた。古典的自由主義、経済自由主義、文化自由主義の立場をとる一方で、オランダの福祉国家の建設にも関わってきた。
VVDの根本的な方針は、「リベラルマニフェスト Liberaal Manifest」と呼ばれる文書や選挙綱領に述べられている。最新の「リベラルマニフェスト」は2005年に発表されたものである。この中では、民主主義、安全保障、自由、市民権の4つのテーマから方針が述べられている。
選挙結果
第二院の選挙結果[18]
選挙年
|
得票数
|
%
|
獲得議席数
|
+/-
|
備考
|
1948
|
391,861
|
7.95
|
|
|
連立与党
|
1952
|
471,038
|
8.83
|
|
1
|
野党
|
1956
|
502,530
|
8.77
|
|
|
野党
|
|
4
|
1959
|
732,758
|
12.21
|
|
6
|
連立与党
|
1963
|
643,820
|
10.29
|
|
3
|
連立与党(1963-1965)
|
野党(1965-1967)
|
1967
|
738,229
|
10.73
|
|
1
|
連立与党
|
1971
|
653,606
|
10.34
|
|
1
|
連立与党
|
1972
|
1,068,375
|
14.45
|
|
6
|
野党
|
1977
|
1,492,689
|
17.95
|
|
6
|
連立与党
|
1981
|
1,505,311
|
17.32
|
|
2
|
野党
|
1982
|
1,900,763
|
23.08
|
|
10
|
連立与党
|
1986
|
1,596,991
|
17.41
|
|
9
|
連立与党
|
1989
|
1,290,427
|
14.54
|
|
5
|
野党
|
1994
|
1,792,401
|
19.96
|
|
9
|
連立与党
|
1998
|
2,124,971
|
24.69
|
|
7
|
連立与党
|
2002
|
1,466,722
|
15.44
|
|
14
|
連立与党
|
2003
|
1,728,707
|
17.91
|
|
4
|
連立与党
|
2006
|
1,443,312
|
14.67
|
|
6
|
野党
|
2010
|
1,929,575
|
20.49
|
|
9
|
連立与党
|
2012
|
2,504,948
|
26.58
|
|
10
|
連立与党
|
2017
|
2,238,351
|
21.29
|
|
8
|
連立与党
|
2021
|
2,279,130
|
21.87
|
|
1
|
連立与党
|
第一院の選挙結果
選挙年
|
得票数[19]
|
%[18]
|
獲得議席数[20]
|
+/-
|
1948
|
|
|
|
|
1951
|
|
|
|
1
|
1952
|
|
|
|
|
1955
|
|
|
|
|
1956
|
|
|
|
|
|
|
|
3
|
1959
|
|
|
|
1
|
1963
|
|
|
|
1
|
1966
|
|
|
|
1
|
1969
|
|
|
|
|
1971
|
|
|
|
|
1974
|
|
|
|
4
|
1977
|
|
|
|
3
|
1980
|
|
|
|
2
|
1981
|
|
|
|
1
|
1983
|
|
|
|
5
|
1986
|
|
|
|
1
|
1987
|
|
|
|
4
|
1991
|
|
|
|
|
1995
|
|
|
|
11
|
1999[21]
|
39,809
|
|
|
4
|
2003[22]
|
31,026
|
19.19
|
|
4
|
2007[23]
|
31,360
|
19.23
|
|
1
|
2011[24]
|
34,590
|
19.65
|
|
2
|
2015[25]
|
28,523
|
15.79
|
|
3
|
2019[26]
|
26,157
|
13.27
|
|
1
|
欧州議会
欧州議会選挙の選挙結果[18]
選挙年
|
得票数
|
%
|
獲得議席数
|
+/-
|
備考
|
1979
|
914,787
|
16.14
|
|
|
|
1984
|
1,002,685
|
18.93
|
|
1
|
|
1989
|
714,745
|
13.63
|
|
2
|
|
1994
|
740,443
|
17.91
|
|
3
|
|
1999
|
698,050
|
19.69
|
|
|
|
2004
|
629,198
|
13.2
|
|
2
|
|
2009
|
518,643
|
11.39
|
|
1
|
|
|
|
※リスボン条約批准後の議席数見直し後
|
2014
|
571,176
|
12.02
|
|
|
|
2019
|
805,100
|
14.64
|
|
1
|
|
|
1
|
※英国のEU離脱に伴う議席数見直し後
|
支持基盤
伝統的に、富裕ビジネスマン層,中間層,ホワイトカラー層を支持基盤とするとされる[2]。
党組織
党大会
党大会は年に2回開催される[27]。
党員数
2022年時点の党員数は26,550人とされる[1]。1970年代末から80年代初頭にかけて、一時10万人以上の党員数を記録していたが、近年は減少傾向にある。
関連組織
- テルダース財団(蘭: TeldersStichting):党シンクタンク。 1954年4月6日設立[28]。ライデン大学の法学者で元自由党党首だったベンジャミン・テルダース(英語版)(1903-1945)にちなんで名付けられた。
- 青年組織自由と民主主義(蘭: Jongeren Organisatie Vrijheid en Democratie (JOVD)):青年組織。1949年2月26日設立[29]。欧州リベラルユース(英語版)及びリベラルユース国際連盟(英語版)に加盟している。
- ハヤ・ヴァン・ソメレン財団(蘭: Haya van Somerenstichting):教育訓練機関。1969年から1974年まで党議長を務めたハヤ・ヴァン・ソメレン(英語版)(1926-1980)にちなんで1981年に名付けられた。
国際組織
民主66と共に、欧州自由民主改革党(ALDE)、自由主義インターナショナル(LI)に所属している。欧州議会の会派としては、民主66と共に欧州刷新(2019年までは欧州自由民主同盟)に所属している。
脚注
外部リンク