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脱解王陵

慶州 脱解王陵
경주 탈해왕릉
(Tomb of King Talhae, Gyeongju)
大韓民国指定史跡第174号
(1969年8月27日指定)
種類遺跡墳丘墓円墳
脱解王陵 탈해왕릉の位置(大韓民国内)
脱解王陵 탈해왕릉
脱解王陵
탈해왕릉
脱解王陵
탈해왕릉 (大韓民国)
所在地大韓民国の旗 韓国
慶尚北道 慶州市東川洞朝鮮語版17
座標北緯35度51分08秒 東経129度13分56秒 / 北緯35.85222度 東経129.23222度 / 35.85222; 129.23222座標: 北緯35度51分08秒 東経129度13分56秒 / 北緯35.85222度 東経129.23222度 / 35.85222; 129.23222
面積98,907m2 (37,993m2[1])
建設新羅(西暦80年頃)
建築様式封土墳朝鮮語版
管理者慶州市
所有者慶州市ほか
ウェブサイト국가문화유산포털

脱解王陵(だっかいおうりょう、ハングル탈해왕릉〈ターレワンヌン[2]〉)は、韓国慶尚北道慶州市東川洞朝鮮語版にある新羅第4代の王(尼師今〈にしきん〉[3]脱解(だっかい、ハングル탈해〈ターレ[4]、タレ[5]〉)の陵墓である。1969年8月27日、大韓民国指定史跡第174号に新羅脱解王陵(ハングル신라탈해왕릉)として指定された後、2011年7月28日に現在の指定名称である慶州脱解王陵ハングル경주 탈해왕릉)に変更された[6]

概要

脱海王陵とされる墳墓は、高さ4.48メートル、直径14.36メートルの[1][2]封土墳朝鮮語版である。封土(盛土[7])以外に構成要素のない外観により、五陵と同様の形式に分類される[8]。小金剛山(ハングル소금강산〈ソクムガンサン〉)の南麓に位置し[2][9]マツの林に囲まれる[1]

歴史

新羅第4代王の脱海(在位57-80年)は、新羅上代の王位に就く三姓(・昔・)の[10](せき〈ソク〉)氏の始祖であり[5]、昔氏の初代王である[9]。脱解王は、史料によれば新羅初代の王(居西干)赫居世(かくきょせい 〈ヒョッコセ〉、在位前57-後4年)らと同じくより生まれたと伝えられる[11][12]

脱海王陵の比定については、『三国史記』に、王が薨去して金城の北壌井丘に葬った[13]とあることに基づき、金城が所在した城東洞殿廊跡朝鮮語版南古塁朝鮮語版の地域より北の東川洞に位置するものとして、関連史料をもとに、20世紀初頭に唱えられたことに始まる。しかし、『三国遺事』によれば、疏川丘で水葬にして、後に骨を取り出して東岳に安置したとされ、また、後に脱海の啓示を受けた第30代文武王(在位661-681年)が、脱解の王陵を開けて骨を収拾し宮廷に安置すると、塑像を作り吐含山の頂上の脱解祠に奉安したとされる[2][14]

脚注

  1. ^ a b c 사적 제 174호 신라 탈해왕릉(新羅 脫海王陵)”. 신라문화유산연구원 (2021年). 2023年2月26日閲覧。
  2. ^ a b c d 「歴史探訪 韓国の文化遺産」編集委員会 編『歴史探訪 韓国の文化遺産 下 慶州・釜山』山川出版社、2016年、132頁。ISBN 978-4-634-15088-1 
  3. ^ 尼師今”. コトバンク. 2023年2月26日閲覧。
  4. ^ 東、田中 (1988)、11・104・122・129頁
  5. ^ a b 姜、鄭、中山 (2002)、15頁
  6. ^ 경주 김유신묘 (慶州 金庾信墓)”. 국가문화유산포털. 문화재청 (2000年). 2023年2月26日閲覧。
  7. ^ 封土”. コトバンク. 精選版 日本国語大辞典. 2023年2月26日閲覧。
  8. ^ 秦弘燮『慶州文化財散歩』學生社、1973年、51頁。 
  9. ^ a b 東、田中 (1988)、12頁
  10. ^ 李 (1983)、5頁
  11. ^ 東、田中 (1988)、9-12頁
  12. ^ 姜、鄭、中山 (2002)、15-19頁
  13. ^ 金富軾三国史記 1』井上秀雄 訳注、平凡社東洋文庫〉、1980年、19頁。ISBN 4-582-80372-5 
  14. ^ 金 (2003)、122頁

参考文献

関連項目

北緯35度51分08秒 東経129度13分56秒 / 北緯35.85222度 東経129.23222度 / 35.85222; 129.23222

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