脱解王陵(だっかいおうりょう、ハングル: 탈해왕릉〈ターレワンヌン[2]〉)は、韓国、慶尚北道慶州市東川洞(朝鮮語版)にある新羅第4代の王(尼師今〈にしきん〉[3])脱解(だっかい、ハングル: 탈해〈ターレ[4]、タレ[5]〉)の陵墓である。1969年8月27日、大韓民国指定史跡第174号に新羅脱解王陵(ハングル: 신라탈해왕릉)として指定された後、2011年7月28日に現在の指定名称である慶州脱解王陵(ハングル: 경주 탈해왕릉)に変更された[6]。
概要
脱海王陵とされる墳墓は、高さ4.48メートル、直径14.36メートルの[1][2]封土墳(朝鮮語版)である。封土(盛土[7])以外に構成要素のない外観により、五陵と同様の形式に分類される[8]。小金剛山(ハングル: 소금강산〈ソクムガンサン〉)の南麓に位置し[2][9]、マツの林に囲まれる[1]。
歴史
新羅第4代王の脱海(在位57-80年)は、新羅上代の王位に就く三姓(朴・昔・金)の[10]昔(せき〈ソク〉)氏の始祖であり[5]、昔氏の初代王である[9]。脱解王は、史料によれば新羅初代の王(居西干)赫居世(かくきょせい 〈ヒョッコセ〉、在位前57-後4年)らと同じく卵より生まれたと伝えられる[11][12]。
脱海王陵の比定については、『三国史記』に、王が薨去して金城の北壌井丘に葬った[13]とあることに基づき、金城が所在した城東洞殿廊跡(朝鮮語版)や南古塁(朝鮮語版)の地域より北の東川洞に位置するものとして、関連史料をもとに、20世紀初頭に唱えられたことに始まる。しかし、『三国遺事』によれば、疏川丘で水葬にして、後に骨を取り出して東岳に安置したとされ、また、後に脱海の啓示を受けた第30代文武王(在位661-681年)が、脱解の王陵を開けて骨を収拾し宮廷に安置すると、塑像を作り吐含山の頂上の脱解祠に奉安したとされる[2][14]。
脚注
参考文献
関連項目
北緯35度51分08秒 東経129度13分56秒 / 北緯35.85222度 東経129.23222度 / 35.85222; 129.23222