稲葉 正次(いなば まさつぐ)は、江戸時代前期の旗本。稲葉正成の長男。
稲葉正成の正室の子で嫡男であったため、本来なら父の遺領を継ぐはずだったが、継母の福(春日局、稲葉重通養女で斎藤利三の娘)が徳川家光の乳母となったため、嫡子の座を異母弟で福の生んだ正勝に譲ることとなった。
元和4年(1618年)、徳川秀忠に召し出され5,000石の所領を与えられる。寛永5年(1628年)、死去。
嫡男・正能が僅か3歳であったため、遺領は弟・正吉が相続するが、正能も後に旗本として召し出され、初の日光奉行を務めるなど活躍。子孫は旗本として存続した。
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- 稲葉正次1618-1628
- 稲葉正吉1628-1656
- 稲葉正休1656-1682
- 天和2年(1682年)8月、正休の知行が万石を越え大名に列したことで、以後は青野藩主となる
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