稲沼 瑞穂(いなぬま みづほ、1908年(明治41年)8月3日 - 1965年(昭和40年)7月29日)は、日本の翻訳家、元岩波書店編集部長。科学史研究の先達とされる[1]。
来歴
1908年8月3日、東京都文京区高田豊川町に生まれる。東京府立第五中学校、第一高等学校理科甲類を経て、1929年に東京帝国大学理学部物理学科に入学する。
1933年に卒業し、4月に岩波書店編集部に入る。1937年11月、病気療養のため退職する。1938年4月、神奈川県立厚木中学校の嘱託に、同年6月から教諭になる。1941年、陸軍予科士官学校の教授となる。同年に日本科学史学会が発足し、その幹事の一員として会務を処理する。
1942年、文部省図書監修官となり、図書局第二編修課に勤務する。1947年、文部省科学官を兼ねて科学局に勤務する。また、学術体制刷新委員会の委員に選ばれる。1948年、文部省を退官し、再び岩波書店編集部に入る。同年4月24日、科学史学会再建第1回の総会で、幹事に選ばれる。
1949年、編集第一部副部長となる。1950年、編集第二部長および図書課長・雑誌課長を兼任する。1955年、編集部長となる。1958年、辞典部部長を兼任するが、病気再発のため9月に休職し入院する。1959年に復職するも、1960年に再び休職する。1963年、岩波書店嘱託となる。
1965年7月29日、肺結核のため死去、享年57歳[8][9]。同年8月1日、告別式が行われる。
業績
- 石原純らが創刊した雑誌『科学』の実際上の編集者であった。
- 岩波書店在職中は『理化学辞典』『科学の辞典』『西洋人名事典』『生物学辞典』の編集に携わったほか、『広辞苑』の編集に際して『広辞苑』の編集部に自然科学関係の執筆者を紹介した[注釈 1]。
- 文部省在職中に学術体制刷新委員会の委員となり、1947年、小倉金之助ら4人の委員と共に「最高科学者会議」案を提出し、学術会議の発足に関与した。
- 1958年、平田寛との共訳である『図解科学と実験の歴史』(シャーウッド・テイラー著)が第5回産経児童出版文化賞の推薦に選ばれた[18]。
著作
翻訳
共訳
記念集
脚注
注釈
- ^ 新村猛によれば、『広辞苑』の編集部は岩波書店の編集部から独立した別個の存在であり、岩波書店の編集部は直接編集に参加することはなかったとしているが、湯浅光朝によれば、稲沼が『広辞苑』の自然科学系の全項目に修正を加えて統一を図ったという話を聞いたと回顧しており、平田寛は、稲沼がしばしば『広辞苑』のゲラ刷りを自宅に持ち帰っていたと回顧している。
出典
- ^ 八杉龍一「ほんとうの教育者はと問われて(21) 稲沼瑞穂 きびしい仕事ぶり 科学者育てた編集者の良心」『朝日新聞』1969年4月15日、27面。
- ^ 「稲沼 瑞穂氏(元岩波書店編集長)」『毎日新聞』1965年7月30日、15面。
- ^ 「稲沼 瑞穂氏(前岩波書店編集部長)」『朝日新聞』1965年7月30日、16面。
- ^ “産経児童出版文化賞過去の受賞作品”. いべさん. 2021年6月18日閲覧。
参考文献