王杲 (拼音:wáng gǎo, 仮名:ワウ・カウ/オウ・コウ) は、明代の建州女真。度々明朝の辺塞を侵犯し、多数の明官を殺害したため、明朝の檄文を受けたハダ初代国主・萬により捕縛され、万暦帝に直接引き渡された後、磔刑にかけられ死亡した。(生:? - 歿:1575)
清朝太祖・ヌルハチの外曽祖父 (あるいは外祖父) とされるが、清朝の史料ではヌルハチとの族柄について言及されず、『清史稿』は民族不詳としている。
略歴
明代史料に拠れば、王杲は漢文のほか蕃語 (蒙文[1]) にも通じ、[2]殊に「日者術」(巫覡シャマンの術[1]) に精通して悪賢く、さらに猛々しく敏捷で、建州右衛の都指揮使に任命されながら、しばしば明朝辺境を侵犯掠奪したという。[3]
明朝辺境部への侵犯
建州左衛の董山が天順以来明朝に要請を送り続けた結果、建州部では撫順関 (現遼寧省撫順市東洲区碾盤郷関口村?) に馬市が開設されたが、現地の夷人らは馬市での馬の売買で得られる利益を当てにしていた為、明朝側の買値に不満を覚えては怏怏とし、一暴れしてやろうと考えた。[4]
撫順の馬市は、グレ城ホトンを拠点とする王杲にとっても要衝の地であった。[4]王杲による暴動の史料における初出は、清太祖ヌルハチが生まれる二年前、嘉靖36年1557にみえる記録とされる。[4]嘉靖36年1557 10月、王杲は撫順関で備禦官職名の彭文洙を殺害すると、続いて東州、恵安 (会安)、一堵牆[5](いづれも撫順関の西乃至南西方向) などの堡塞を掠奪し、以降それが毎月のように続いた。[3]
嘉靖41年1562 5月、王杲は虜衆を糾合して二手に分け、東州堡と撫順核桃山から入寇した。遼陽副総兵の黑春[注 1]は遊撃・徐維忠らを率いて応戦し、黑春みづから数十の首級を挙げる活躍をみせた。虜衆は大敗し、鎧甲を脱ぎ捨てて遁走した。核桃山では備禦・劉普が虜衆を撃攘し、149の首級を挙げて馬50匹と大量の鎧甲を鹵獲した。[6]同月、虜衆が再び遼東を侵犯し、鳳凰城を攻撃したが、攻略できず、湯站堡を掠奪した。黑春が王杲の居城を直接たたき潰そうとグレ城に進軍すると、王杲らは敗走する振りをみせて精鋭の騎兵を媳婦山[3]の林中に忍ばせ、追って来た黑春らを幾重にも取り巻いた。黑春と把総の田耕らは孤立無援の中、二昼夜に亘って力戦したすえに磔にされ[3]殺害された。[7]
撫順馬市の閉鎖と再開
これに味を占めた王杲は漢人官吏を多数殺害し、さらに遼陽 (現遼寧省遼陽市) 侵犯、孤山不詳や撫順、湯站 (現遼寧省丹東市振安区湯山城鎮?) での掠奪が繰り返され、[3]またこれらと前後して指揮の王国柱、陳其孚、戴冕、王重爵、楊五美、把総 (官職名) の温欒、于欒、王守廉、田耕、劉一鳴ら、十名が殺害された。[8]明朝は撫順の貢市を閉鎖し、加えて王杲征伐を議決したが、王杲は寛恕を乞いながらも悛改しようとせず、怒馬に跨り遼塞を侵犯しては意気揚々としていたという。[3]
隆慶末頃、建州部の哈哈納ら30人が明朝辺塞に逃げ込み、明朝に亡命した。王杲は開原城 (現遼寧省鉄嶺市開原市) に赴いて逃亡者の引き渡しを求めたが、拒否されたため、騎兵1,000余りを率いて清河を犯した。游擊将軍・曹簠ソウ・ホが伏兵をしかけて五人を斬伐したが、王杲は逃走した。
その後、撫順の貢市は再開された。建州部の各酋長は馬を牽きながら順番に撫夷庁に入り、明側は備禦官職名が進納された馬の品定めをしてゆく。馬はどれも貢納の基準に満たないような、足萎えで痩せぎすのものばかりであったが、酋長の欲求を満たすため敢えて高値がつけられた。そんな中で入貢資格を剥奪されている王杲は、いつも独り酒を呷りながらこの情景を睥睨し、酒が廻ると箕踞しながら入貢者に罵詈雑言を浴びせて悪態をつき、各酋長には敢えて咎める者もいなかった。[3]
賈汝翼の強硬姿勢
隆慶6年1572に新しく撫順の備禦に就任した賈汝翼は前任者とうってかわり、同年旧暦7月、入貢者を撫夷庁に上がらせず、階下で馬を検めさせ、さらに貢納基準に合わない馬を進納した者を譴責した上に、褒賞の授与を拒否したため、入貢した各酋長は切歯扼腕して悔しがった。[3][9]明に逃げ込んだ者の引き渡しを求めて拒否されていた王杲は、賈汝翼の強硬姿勢に業を煮やした諸酋長と、牛を屠って盟約を契り、[3]明の辺塞を数度に亘って侵犯掠奪した。[9]
この時、副総兵の趙完は王杲らに阿り、巡撫遼東・張學顏の指揮を無視して出兵せず、さらに事件の責任を賈汝翼に転嫁した。[9]張學顏は賈汝翼の態度を国威発揚のためと弁護した一方、趙完の行動については敵虜に対して姑息 (一時凌ぎ) な手段をとれば、後々禍根を遺すと述べ、また兵部は趙完の行動を指揮違反どころか軍機失誤だと非難した。張學顏からの追究を懼れた趙完は、弟に金300と貂裘を持たせて張學顏の許へ届けさせたが、賄賂が張學顏によって暴かれ、捕捉された。[10][11]兵部は虜衆撃攘を優先して趙完の処分を一旦棚上げし、趙完は旧暦8月の虜騎再襲に際して18の首級を挙げた。[12]遼東統轄における過失を理由に旧暦10月21日に備禦の職を罷免された賈汝翼と、[13]それ以前に官職を解かれていた趙完は、ともに翌万暦1年1573旧暦3月に弾劾された。[14]
さて、明の官軍は王杲らの一連の襲撃に対して28の首級をあげたものの、軍はすでに疲弊し、怒りを募らせた王杲が仮にさらに大きく反撃にでれば太刀打ちできない状態にあった。[15]隆慶6年1572旧暦7月、張學顏は状況に鑑み、拉致された軍民や馬を返還すれば王杲に入貢を再び允許してやる、という案を具申し、[9]旧暦9月、兵部はこれを議決した。[15]同月、東夷の阿革と王杲らが撫順、寧前 (広寧前?)、錦義不詳などを侵犯し、[16]さらに同月28日には、王台吉ホン・タイジ率いる1,000餘騎と王杲ら率いる3,000餘騎がそれぞれ撫順関に迫った。[17]分守東寧道・李鶚および開原兵備・王之弼らに派遣された官吏は王杲らと盟歃[18]した。[17]この頃、ハダ国主・萬 (王台) が諸部を制圧し、強勢を誇っていたため、開原兵備副使・王之弼は萬に檄文を出し、王杲を誨諭させた。これに対し、王杲は賈汝翼の圧迫的態度を訴えた。
同月26日、巡按遼東御史の朱文科は、5-9月に亘って拉致された軍民250餘人が未だ返還されていないことについて、賈汝翼の過失を追究し、また夷人と血を啜って盟約を結び国家の威信を貶めたとして、李鶚と王之弼を弾劾した。[17]
旧暦12月、王杲は明の諭旨に遵って王台ワン・ハンと撫順関で盟約を結び、149人の軍民と馬を明に返還した。明側は王杲の入貢資格を再び承認し、王台には褒賞として銀幣が賜与された。[19]
再度停止
万暦2 (1574) 年旧暦7月、建州部の奈児禿ら四人が明朝辺塞の関門を叩いて亡命を願い出た。王杲の部下・来力紅はこれを連れ戻すべく関門に駆け着けたが、同年に備禦を兼任したばかりの撫順遊擊・裴承祖が引き渡しを拒否したため、応酬として行夜[20]の警備五人を拉致し、五人を返還するよう命令されたが拒否した。裴承祖は王杲が入貢中であることを知っていたため、朝貢の持参物を棄ててまで加勢しに戻って来ないだろうと予測し、騎兵300余りを率いて来力紅の部落に進攻したが、現地で諸部に完全包囲され身動きがとれなくなった。王杲はこれを知るや蜻蛉返りして裴承祖に謁したが、一方で包囲の群勢は更に増えていた。裴承祖は「皆貴下に拝謁を願うております」という王杲の虚言を聞き捨てると、数十人を殺害し、諸部もこれに応酬して戦闘が始まった。来力紅は裴承祖を執えると腹を剖いて殺害し、更に把総・劉承奕と百戸・劉仲文を惨殺した。事件を知った張学顔は具申して王杲の貢市を停止した。
貢市が停止されて属部が困窮していることを理由に王杲は、トゥメト[21]、泰寧諸部を糾合し、大挙して遼陽、瀋陽を襲撃した。李成梁は瀋陽に武将を分けて駐箚させた。王杲は諸部の騎兵3,000を率いて五味子衝に進入したが、明軍に囲まれ、諸部の兵は王杲の部落へ逃亡した。王杲の部落は天険に築かれ、城郭が堅固で深い空堀を設けてあるため、攻略は困難とされた。同年旧暦10月、明軍は砲弾、火器を携えて王杲の部落を包囲し、要塞の幾重にも張り巡らされた柵を斧で壊し始めた。李成梁が各武将に早急に城を陥落させるよう命じると、王杲は300人に櫓の上から弓矢で抗戦させたが、対する明軍は火を放ち、家屋や馬草が悉く炎上して空は煙に覆われ、諸部は潰滅した。明軍は首級を1,104挙げ、裴承祖らを殺害した者は全て首を落とされたが、王杲はまたも逃走した。明軍は圧倒的軍事力でほとんどの人畜を殺戮、掠奪した。
逃走失敗
万暦3 (1575) 年旧暦3年2月、王杲は余勢を集めて再び辺塞を侵犯したが、またも明軍により包囲された。王杲は蟒褂と紅甲を阿哈納 (アハナ?) に与えて囮りとし、明軍に追わせてその隙に突破を図った。突破に成功した王杲は泰寧衛の速把亥の許を目指したが、明軍を避けて北走を諦め、萬 (ハダ) の領地を経由することにした[22][23]。
同年旧暦7月28日、明朝側から檄文を受けた萬は子・フルガン[24][25]と共に王杲を執え、辺塞看守にその身柄を引き渡した[26]。同年旧暦8月6日、明の神宗・万暦帝は王杲の身柄を紫禁城に檻送するよう命じ、また、王杲を捕らえた功績を以て萬に龍虎将軍の勲官を授与し[27]、萬の子二人[28]を都督僉事に昇任させ、報奨として銀幣を下賜した[29]。同月29日、万暦帝は午門雲楼に登り、遼東守から王杲の身柄を受け取った[30]。日者術[31]に通じているから不死身だと豪語していた王杲は、貢市で[32]磔刑に処されて死亡し、その妻子27人は萬の帰属とされたが、子・アタイは脱した[33]。
名称
一説には、女真名を阿突罕と謂う。[34]また、『東夷考畧』に拠れば、初期の明辺侵犯を承けて明側が入貢を停止した後は、科勺という偽名を使って入貢を続けたとされる。
清宗室との関係
- 稻葉岩吉は自著『清朝全史』[35](1914) において以下の如く述べ、王杲をヌルハチの外祖父としている。(フリガナは原書に拠る。)
清朝の記錄は、又た太祖の母系を詳かに言はず。實錄は、顯祖の大福金フチンなりといひて、喜塔喇氏といふを舉げ、こは阿古都督の女、後に宣皇后といへる、即ち是れなりと附記せるが、阿古都督なるもの、何樣たりしやは、又明かならず。阿古は、王杲ワンコの轉音とも覺ゆるが、それを明記せざるは、蓋し諱むところありしなるべし。葉赫の酋長那林孛羅は、かつて太祖をば王杲の裔なりといへり。
- 趙爾巽らの編纂に成る『清史稿』(1928) は「其の種族を知らず」[36]と言い、且つヌルハチとの関係についても言及していない。
- 孟森は自著『清朝前紀』(1930) において以下の如く述べ、上記の稻葉の見方に概ね賛同している。(適宜括弧及び読点を附した。)[注 2]
顯祖爲王杲女夫。據稻葉引清實錄、顯祖之大福金爲喜塔喇氏、乃阿古都督女。今、東華錄所錄正同。稻葉云「阿古都督爲何等人、無明文。今、可斷言阿古卽王杲之轉音。不舉王杲者、諱之也。葉赫酋長・那林孛羅之言、不曰『太祖爲王杲之裔』乎。」[35]今、按稻葉之言甚確。其所見稱「太祖爲王杲之裔」者、爲葉赫貝勒・那林孛羅、自必有本。那林孛羅……卽孝慈高皇后之兄。……以太祖妻舅之所言、自必可信。……要之清太祖母爲王杲之所出、明清之際、固共知之、後乃諱言耳。
(抄訳:稻葉の『清實錄』からの引用に拠ればタクシの嫡妻はヒタラhitara氏で、アグagu都督の娘である。『東華錄』にも同様の記述がみられる。稻葉の曰う所の「阿古は、王杲ワンコの轉音」というのは尤もである。イェヘのナリムブルはヌルハチ後妻モンゴ・ジェジェの兄、つまりヌルハチの義兄である為、「(太祖をば) 王杲の裔なり」という発言も信頼できる。要するに、ヌルハチの母は王杲の娘で、明末清初の頃は衆知の事実であったのが、後世になって憚られたに過ぎない。)
- 『明實錄』の万暦5年10月4日の記事に「○丁亥。建州右等衛女直夷人都督・來留住等、并隣等衛[注 3]夷人都督阿古等、各赴京朝貢。賜宴、給賞如例。」[37]とあるが、王杲は万暦3年に磔にされて死亡している為、同記事の「都督阿古」がヌルハチ母ヒタラ氏の父であれば、王杲=阿古は成り立たなく成る。
子孫
脚注
註釈
- ^ 参考:黑春は『明史稿』「黑春傳」に拠れば建州女直の後裔で、代々広寧衛の指揮使を務める家系であった。
- ^ 参考:维基百科「王杲」では「稻叶君山认为王杲与“阿古都督”为同一个人,孟森以为误」とし、その典拠として孟森『滿洲開國史講義』中華書局 (2006) p.194を挙げている。同書については閲覧できていない為、さしあたって『清朝前紀』の記述に拠る。尚、『滿洲開國史講義』は目次をみる限り『清朝前紀』に加筆したものと思われる。
- ^ 参考:「隣」不詳。「毛憐」のことか。
参照文献・史料
- 茅瑞徵『東夷考略』1621 (中国語)
- 顧秉謙?『明神宗實錄』1630年? (中国語)
- 稲葉岩吉『清朝全史』早稲田大学, 1914年 (国立国会図書館デジタルコレクション:上巻/下巻)
- 趙爾巽, 他100余名『清史稿』巻222, 清史館, 1928年 (中国語)
- 孟森『滿洲開國史講義』中華書局, 2006年 (中国語)