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李密 (隋)

李密(說唐演義全傳)

李 密(り みつ、582年開皇2年) - 619年(武徳元年)1月20日)は、中国隋末に割拠した群雄の一人。玄邃、または法主[注 1]本貫遼東郡襄平県(現在の遼寧省遼陽市[注 2]

概要

の上柱國・蒲山公李寛の子として生まれる。若いころ宮廷の護衛官となったが程なくして辞任した。613年に反乱を起こした楊玄感の謀主となり、反乱が失敗に終わると名を変えて民間に隠れた。のちに東郡翟譲による群盗集団に合流して州県を奪取し、反煬帝の大義を掲げて号令した。将の張須陀を破り、617年には洛口倉を占領、そこに拠って魏公を名乗り、政権を樹立した。河南から山東、江蘇までを勢力下に収め、官軍を幾度も破って煬帝を恐れさせ、竇建徳朱粲ら各地の群雄から恭順を示された。煬帝が殺害されると隋の恭帝楊侗に帰順したが、宇文化及との戦いで疲弊し、王世充との戦いの際に配下の裏切りにあって拠点を失った。長安に拠る李淵に身を寄せたが、間もなく亡命を図って殺された。

生涯

出身

武川鎮軍閥中の名家の一つである遼東李氏を出自とする。曾祖父は西魏柱国李弼。祖父は北周の邢国公李曜。父は隋の蒲山郡公李寛中国語版。父の代で長安に移った[1]

李密(橘守国『絵本故事談』より)

開皇年間に父の蒲山公の爵位を受け継ぐと、家財を散じて親類や旧友を援助し、客人や賢者を礼遇した。学問に耽って特に兵書を好んで読み、国子助教の包愷に師事して『史記』『漢書』を学んだ[2]。包愷を尋ねるために黄牛に乗り、牛の角に『漢書』を掛けて読書[注 3]をしながら移動していた時に越国公の楊素と知り合った。楊素は李密が「項羽伝」を読んでいることに驚き、言葉を交わしてみると気に入ったため息子の楊玄感に紹介すると、楊玄感は李密を慕って親交を結んだ[注 4]

大業の初め、蔭官により左親侍中国語版[注 5]となるが、煬帝は李密の目つきが気に入らず宿衛にしないよう宇文述に命じた。宇文述は李密に対し才学をもって官職に就くよう勧めると、李密は病と称して辞職し、家に籠もって勉学に励んだ[1]

楊玄感の乱

大業9年(613年)、隋の第3次高句麗遠征の際に楊玄感は兵站を任されていたが、煬帝への不信から反乱を起こした[3]。李密は楊玄感に招かれて黎陽に赴き、謀首(謀議の主導者)となった。計略を問われると「天子は遠く遼東におり、南は海に、北は胡戎に阻まれ、中間の道は難所である」と前置きしたうえで、上中下の3つの選択肢を示した。「上策は、遠征軍の不意をついて薊(涿郡。現在の北京)を抑えて帰路を断ち、兵糧を尽きさせて降伏してくるのを待つこと。中策は、関中四塞を頼みとして無防備である長安を急襲して落とし、険阻に拠って対抗すること。もし近場を狙うのであれば洛陽に向かわねばならないが、洛陽は堅固であるがゆえに攻め落とすまで歳月がかかり、とりわけ勝敗の予測が難しいため下策である」と述べた[2]

楊玄感は、洛陽には百官の家が多くあり、これを奪って動揺を誘い、武を示す必要があるとして洛陽攻めを敢行した。反乱軍には勢いがあり、緒戦を勝利で重ねた。楊玄感は捕えた韋福嗣を腹心としたが、謀議の際に曖昧な態度を取り、檄文の起草を固辞した韋福嗣を李密は警戒し、彼を殺すよう進言したが反対された。「楚公(楊玄感)は造反を好みながら勝利を求めていない。我らは今に捕虜となってしまうだろう」と親しい人に語っている[注 6]。楊玄感から皇帝を称することについて相談を受けると「敵の救援はますます増えている。一刻も早く関中を平定しなければならない時に、なぜ性急に尊号を欲して意気地のなさをみせるのか」と助言し、楊玄感は笑って同意した[1]

宇文述来護児ら隋の援軍が洛陽に押し迫ると楊玄感は関中への進行を決め、李密は進軍を容易くするため隴右に駐屯する元弘嗣が謀反を起こしたと流言して混乱を引き起こした。陝県に入ると楊玄感は弘農宮の攻略に乗り出した。迅速に進軍するよう強く諫めたが聞き入れられず、弘農宮を落とせないうちに追手が迫り、閿郷県まで進んだ所で隋軍に追いつかれて楊玄感軍は敗北した[1]

李密は潼関に潜り込んだが捕らえられ、高陽にいる煬帝のもとへ護送されることになった。同様に捕まった仲間に対し「我らの命は朝露のようなもの。高陽に着けば切り刻まれて肉醬にされるだろう。今ならまだ脱走は可能だ。鼎鑊(罪人を煮殺す鍋)に送られるというのにどうして逃げないことがあろうか」と相談するとみな同意した。護送官に所持金を示して自分たちの埋葬を頼み、残金は彼らに譲ることを話した。警備が徐々に緩くなり、酒食を買いに行かせ、毎晩飲み騒ぎ喧嘩したが護送官は気にしなかった。邯鄲県に着くと同士6人と共に塀を破って逃げ出した[1]

平原の頭目郝孝德に身を寄せたがひどく冷遇されたので去り、淮陽郡の農村に身を落ち着けた。劉智遠と名を偽り、生徒を集めて学問を教え始める。失意のうちに数ヶ月が経ち、五言詩[注 7]を綴ると涙を流した。その様子を見た者に怪しまれて通報されたため逃亡し[1]、雍丘県の判事で妹婿の丘君明のもとへ身を寄せる。遊俠で知られる王秀才を紹介されてその娘と結婚したが、丘君明の甥に密告され、李密はたまたま外出していたので助かったが丘君明と王秀才は捕らえられて処刑された[4]

魏政権樹立

逃亡の末、当時民衆を多く擁していた東郡翟譲集団に加わった。楊玄感の配下であったことを知る者がいたので翟譲に囚われてしまったが、王伯当を介して煬帝の非を鳴らし、その暴虐を誅滅するよう説くと釈放された。翟譲がこの言を用いて他の群盗に働きかけるとみな降ってきたので李密を信任するようになり、事を計るようになった。

翟譲集団は兵は多いが食糧が少なく、人も馬も疲弊しているため、滎陽を奪って兵糧を確保し、兵馬を回復させるよう進言した。翟譲も賛成し、金堤関を破って滎陽諸県の多くを降した。滎陽太守の楊慶と河南討捕大使の張須陀が翟譲討伐にやってくると、翟譲は過去に張須陀に敗れていてひどく恐れていたため、張須陀が負ける理由を挙げて説得した。常何ら20の遊騎を率い、1,000の兵を草木に埋伏させた。翟譲軍と張須陀軍がぶつかり、翟譲が押されて少し退いた時、伏兵と遊軍を発動して張須陀を背後から襲撃し、翟譲と協力して張須陀を殺した。

大業13年(617年)春、翟譲の軍とは別に独自の軍をおくことを許され、蒲山公と号した。李密の軍は訓練が行き届き、倹約を旨とし、得た財宝は配下に分け与えるなど人のために使った。朝廷の穀物倉である洛口倉(興洛倉ともいう。現在の河南省鄭州市鞏義市)を制圧し、飢饉で困窮する民衆を救済して衆を集めることを提案すると、翟譲はためらいつつも承諾し、洛口倉の攻略は李密に主導させた。2月、洛口倉を奪い取り、倉を開いて民衆にほしいままに取らせると10万人が集まった。越王楊侗が劉長恭らを李密討伐に差し向けたため、単雄信徐世勣、王伯当の騎兵を左右に配し、自ら急撃して破った。

翟譲に推戴されて魏公となった。の南に壇場を設けて即位し、元年とした[注 8]。行軍元帥府・魏公府を設け、翟讓を司徒とし、東郡公に封じた。房彦藻を左長史、邴元真を右長史、楊徳方を左司馬、鄭德韜を右司馬、単雄信を左武候大将軍、徐世勣を右武候大将軍、祖君彦を記室とした。洛口の周囲四十里に城を築いて(洛口倉城とも呼ばれる)これを居城とした。

4月、虎牢関裴仁基・裴行儼、長白の山賊孟讓、鞏県長の柴孝和・監察御史の鄭頲が前後して帰順した。裴仁基と孟讓を派遣して、洛陽城の北に隣接する回洛倉を落とした。裴仁基らは洛陽を侵犯したが洛陽軍に大敗したため、李密は3万の兵を率いて洛陽に向けて進軍し、隋将の段達ら7万の兵を洛陽故城で敗走させた。回洛倉の防備を固めて洛陽に肉薄し、煬帝の10の罪状を列べた檄文を祖君彦に作らせて内外に示した。

隋末の反乱を示す地図。翟譲・李密政権の勢力範囲は薄緑色の斜線で示されている。

柴孝和は、秦の地は天然の要害かつ王業の地であるため長安を獲得するよう進言した。李密も同意見だったが、政権内には山東の者が多く、洛陽を攻略しないまま長安へ向かっても従ってはくれないことを、また群盗の出である諸将を留めておけば各自争い始めるであろうことを懸念した。柴孝和はそれを受けて、ためしに単独で陝県に入り、1万あまりの賊徒を集めたが、李密が隋軍との連戦で負傷し、回洛倉を捨てて洛口倉城に敗走すると、みな逃げ散ってしまった。6月には回洛倉を取り返した。

王世充との連戦・翟譲一派粛清

大業13年(617年)7月、煬帝は李密討伐のため、江都通守の王世充・河南大使の王辯らを洛陽に遣わした。9月には洛陽軍・偃師軍・王世充軍ら10万あまりの兵と洛口で対峙し、洛水を守った。10月に王世充が黒石に軍営を設けて洛北に布陣したため、洛水を渡って攻撃したが敗れ、柴孝和が溺死する損失を受けて李密はひどく傷ついた。洛南まで後退し、王世充が追走してきて洛南の月城を囲むのを確認すると、取って返して黒石の王世充の軍営に迫った。救援に駆けつけた王世充を撃破し、多数の首級をあげた。

徐世勣を遣わして、武陽郡の元寶蔵や、黎陽の李文相・平原の郝孝德ら頭目と共に黎陽倉を陥落させた。

翟讓の配下である王儒信と翟譲の兄・翟寛は李密の権力を奪おうと計り、翟譲は取り合わなかったが、李密はこれを知って憎んだ。崔世樞・房彦藻も翟譲による暴行・脅迫などの被害を訴えたため、鄭颋とひそかに図った。

11月に王世充と石子河にて対峙した。先発した翟譲が不利となって後退し、王世充が追ってきたところを王伯当・裴仁基が側面を突き、李密が攻撃して敗走させた。翌日、翟譲の要請を受け、皆を集めて宴会を開いた。李密は翟譲に良弓を見せ、弓を引き絞った所を李密の命を受けた蔡建が翟譲を背後から斬殺し、翟寬と王儒信も殺された。徐世勣は混乱の中で重傷を負ったが、李密が急いで止めたので死を免れた。頓首して許しを求める単雄信らを慰め愉し、翟譲の営舎を回って将士を慰撫し、混乱を収めた。翟譲の将兵は徐世勣、単雄信、王伯当に別けて統率させた。

12月、王世充が将兵を集めていること、兵糧とまぐさが尽きようとしていることから洛口倉城への夜襲を見抜いて備えさせ、その夜、来襲した王世充軍を撃退した。

義寧2年(618年)1月、兵を大幅に増強した王世充軍に洛水において敗れた。王世充軍は複数の浮き橋を造ってそれぞれ進撃し、李密軍の陣営は王辯に外柵を破られて大混乱を来した。ところが王世充が撤退の笛を鳴らしたため隋軍は動揺し、李密はそれに乗じて決死隊を率いて追撃した。隋軍は逃げ惑い、橋に殺到して1万人あまりが溺死、楊威・王辯ら隋将6人も陣没した。王世充は洛陽には還らず河陽へ遁走したが、その夜の悪天候のため数万の兵士が凍死した。李密は金墉城を落城させ、修復して居城とし、北邙に30万の兵を駐屯させ、洛陽の上春門を攻めて隋将韋津を殺した。偃師・柏谷および河陽の獨孤武都らが帰順した。

竇建徳朱粲ら群雄が皇帝の位に就くように勧め、裴仁基らも賛同したが、洛陽を平定できていないため承諾しなかった。

隋に帰順・宇文化及戦

煬帝が殺されると、義寧2年(618年)5月に隋朝に帰順する使者を洛陽に送った[注 9]。煬帝を弑逆した宇文化及が10万あまりの衆を引き連れて揚州から北上してきたため、鞏洛でこれを防いだ。宇文化及の集団は洛陽・長安へ帰ることができず、東郡に入った。

6月、宇文化及軍が黎陽県に迫った。黎陽を守る徐世勣は黎陽倉に立てこもり守りを固めると、宇文化及は黎陽県を奪い、黎陽倉を包囲した。李密は歩騎2万を率いて清淇に布陣し、堀と塁を設けてあえて戦わず、徐世勣と烽火を使って呼応し合い、黎陽倉が攻撃を受けるたびに敵軍の背後を襲って助けた。川を隔てて対峙し、子孫を絶やさないことを条件に降伏を呼びかけたが拒絶された。

洛陽政権は宇文化及の集団が上洛することを恐れ、李密にそれを討たせつつ李密の力を削ぐことを企み、宇文化及の討伐を条件に帰順を承認した。李密は洛陽軍の動きを警戒しながら戦っていたため大変喜び、煬帝弑逆の一員であった于弘達を恭帝に献上した。太尉尚書令・魏公を授けられ、宇文化及を討伐してから入朝することとなった。

宇文化及軍と偽りの和睦を結んで食糧を枯渇させたのち、衛州の童山の麓で対決したが流れ矢で負傷した。宇文化及は汲郡東郡で食糧を略奪したため、東郡を守っていた隋臣の王軌は宇文化及の行為を怨んで東郡ごと投降した。宇文化及は恐れて北に逃げ去り、その将である陳智略、張童仁が帰順した。入朝するため洛陽に向かっていたが、李密の入朝を主導していた元文都盧楚らが反李密派の王世充に殺されたことを知り、金墉城へ帰った。

王世充との決戦

李密政権には穀倉庫はあれど財物を溜め置く府庫がなかった。洛陽と衣類の交易をしたが、洛陽に食糧が足りてくると投降してくる者が激減したため交易を取りやめた。兵は褒賞をもらえなくなり、一方で李密が新参の者を厚く慰撫したため、次第に不満を抱くようになった。

9月、王世充は李密軍が宇文化及軍との戦いで精兵と良馬を失い、士卒が疲弊していることに目をつけると、進軍して偃師に迫った。李密は王伯当に金墉を守らせ、自らは偃師を出て邙山の北に陣営を張った。会議を開くと、裴仁基は別動隊と連携して王世充軍を疲弊させてから討つ案を示した。李密も賛成し、隋軍は精強であること、深入りしてくること、兵糧の心配をして焦っていることの3つの理由を挙げてまともにぶつかってはならないと説明した。陳智略、単雄信らが兵力の差ゆえに徹底抗戦を展開すると会議は騒然とし、諸将の大半が支持したため、これに従った。偃師の北で王世充の数百騎を迎え撃ったが裴行儼・程知節ら驍将十数人はみな重症を負った。王世充は李密の容貌に似ている者を縛り上げて偽りの勝鬨を上げさせ、伏兵を突撃させて陣営を焼いた。王世充を軽く見て防壁を設けなかったことから李密軍は潰乱状態に陥って洛口倉城に敗走し、張童仁・陳智略は王世充に降った。偃師城は王世充軍に囲まれると鄭頲の部下が謀反を起こして城ごと降伏し、鄭頲、裴仁基、祖君彦ら数十人の臣下が捕虜となった。王世充は諸将の家族や子弟を慰撫し、父兄が降るように呼びかけさせた。洛口倉城に帰ると、邴元真が造反を謀って王世充を手引きしている事に気付いたが、それを表沙汰にせず、王世充軍が洛水を半ば渡った所で攻撃しようとした。しかし斥候がもたついたために渡河を許し、李密軍は支えきれず虎牢関まで退却した。邴元真は洛口倉城ごと投降し、単雄信も降伏した。かねてより邴元真・単雄信は信用ならず、排除するよう臣下に警告されていたが李密は決断しなかった。

黎陽へ向かおうとしたが、黎陽を守る徐世勣は翟譲を粛清した際に殺されそうになったため信用できるか訊ねられると不安になり、河陽を守る王伯当のもとへ身を寄せた。洛口倉は取られたものの、いまだ残る領土に拠って再起をはかろうとしたが、この大敗を受けて兵はみな逃げ散るおそれがあり、成功は難しいだろうと諸将は反対した。頼みとする兵がそれを願わないのなら我が道は潰えたと、自害して皆に謝罪することを望んだ。王伯当は李密を抱いて号泣し、周りの者もみな悲泣した。親交のある関中の李淵のもとに身を寄せる提案をすると、李密と李淵が同族であること、李淵が長安を落とす際に李密軍が洛陽を阻んでいたことを挙げて、悪い扱いはしないだろうと一同も賛成した。名家の出である王伯当に対しては敗残者である自分とは同行しないことを勧めたが、王伯当は李密と生死を共にすることを誓った。

唐に臣従・最期

2万人を従えての李淵に帰服した。光禄卿となり、邢国公に封ぜられた。李淵の従姉妹の獨孤氏を娶ったため李淵からは弟と呼ばれたが、朝臣からの賄賂の要求や光禄卿への任官に不満を抱き、鬱々としていた。

唐が薛仁杲を滅ぼすと、李淵は薛挙・薛仁杲父子に従った者を殲滅させて犠牲となった士卒の霊を慰めようとした。李密は、薛舉が滅んだのは無辜を虐殺したせいであり、従順な者は慰撫しなければならないと諌めると、李淵は謀首のみを殺し、あとはすべて赦した[5]

李密の旧臣が王世充に服従していないことを知った李淵は、李密を黎陽へ派遣して彼らを招集させ、洛陽を攻略しようと計った。李淵から命を受け、王伯当らを伴って長安を出立したが、桃林県まで来た所で一旦戻るように命ぜられた。戻れば殺されることを恐れ、王伯当らが止めるのも聞かずに勅命に逆らって逃亡を図った。驍勇数十人に婦人の服を着せて妻妾と偽り、警戒を緩めさせた上で桃林県に入り、家畜を奪って脱出、襄城に向かい、襄城郡を守る旧臣の張善相に呼応するよう使者を出した。陸渾県南の道半ばまで来た時、熊州副将の盛彦師による伏兵の奇襲を受けて斬殺された。享年37。同行していた王伯当も死に、李密の首は長安に送られた[1]

死後

黎陽総管の徐世勣は李密の反状を知らされると遺体を納棺・埋葬したい旨を要請した。李淵から遺体を返されると喪を発し、君臣の礼をもって黎陽山の南に埋葬した。李密は士に慕われていたため多くの者が慟哭した。

旧臣の杜才幹は、李密に背いた邴元真を恨んで殺害し、李密の墓にその首を祭った。[1]

李密を主人公にした文芸作品

脚注

注釈

  1. ^ 『隋書』『北史』は法主、『旧唐書』『壺関録』は玄邃、『新唐書』は玄邃と法主、「唐故邢國公李密墓誌銘」は元邃とする。
  2. ^ 『旧唐書』『新唐書』は遼東襄平、『北史』「唐上柱國邢國公李君之墓銘」「唐故邢國公李密墓誌銘」は隴西成紀、『壺関録』は遼西または遼東襄平とする。
  3. ^ 牛の角に書物を立てかけて学問に励むことを意味する「牛角掛書」の故事の由来となった。
  4. ^ 『隋書』「李密伝」によると、李密と楊玄感は刎頸の交りを結んでいた。
  5. ^ 『隋書』「李密伝」では親衞大都督、『新唐書』「李密伝」では左親衛・東宮千牛備身中国語版になったと記している。
  6. ^ 楊玄感軍が関中に向かった際、韋福嗣は洛陽に逃げ去った。
  7. ^ 「金風蕩初節 玉露凋晚林 此夕窮塗士 空軫鬱陶心 眺聽良多感 慷慨獨霑襟 霑襟何所為 悵然懷古意 秦俗猶未平 漢道將何冀 樊噲巿井徒 蕭何刀筆吏 一朝時運合 萬古傳名器 寄言世上雄 虛生真可愧」(『隋書』「李密伝」)
  8. ^ 『隋書』『旧唐書』『資治通鑑』は「称元年」。『新唐書』は「改元永平」。
  9. ^ 前島佳孝は、李淵や宇文化及に対抗するために李密も恭帝侗からの禅譲による新国家建国を目指したものであるという考えを示した。『隋末李密の東都受官に関する一試論』(『西魏・北周政権史の研究』(汲古書院、2013年) ISBN 978-4-7629-6009-3 (原論文:2002年))

出典

伝記資料

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