新町住宅 (しんまちじゅうたく)とは、東京信託 株式会社が1913年 (大正 2年)より新町 にて開発した東京 における初の郊外型住宅分譲地である[ 1] 。現在の東京都 世田谷区 桜新町 、深沢 の一部に当たる。
概要
販売用パンフレット「新町郊外生活」より
総開発実測面積 :23.48万平米 (7.1万坪 ) うち、道路敷地 3.4万平米(1万坪)
設備 :上下水道、電燈、電話
施設 郵便局、医院、浴場、理髪所、日用品販売所、巡査派出所 、事務所、および倶楽部(新町倶楽部)賃貸用住戸
交通 :玉電 で渋谷 より約20分、玉電の特別割引特典、新町停留所 との間に、自動車による低廉な送迎サービスあり
植樹 :自然な立木や池を利用し、人工を避けた
制約条件 :美観を損ねる狭小家屋、棟割長屋 、工場の建設を禁止 一定期間内の家屋建設の義務 最低100坪の敷地面積
総分譲地 (登記簿ベース):183口 5万251坪 (平均274.5坪)
1区画の坪数 :100坪から500坪程度 分譲時の最大区画は若尾璋八 (東京電燈 社長など)邸の3,300坪。現在の無原罪聖母宣教女会。
分譲期間 :大正2年(1913年 )から昭和 7年(1932年 )
分譲地開発計画の背景
それまでは農家が点在する武蔵野 の原野 ・雑木林 であったが、明治 後期、欧米の財産管理や不動産関係の信託業務を視察して帰国した、三井銀行(現在の三井住友銀行 )の岩崎一が興した東京信託 株式会社が1911年 (明治44年)より土地を買収・開発し、1913年(大正2年)から富裕層 向けに分譲された。
場所は大山街道 に敷設された玉電 桜新町駅 の南側に広がる、当時の駒沢村 および玉川村 の一部を含む「世田谷新町」一帯(現在の住所で言う桜新町および深沢の一部)。
東京市 中の商人や、多くの著名人、軍人、事業家などが、交通の便が良く、西方の眺望のよい新町住宅地に別荘などとして居を構えた[ 1] 。「東京の軽井沢 」とも称され、分譲地内の道路の両側には桜の木が千本以上植えられた。
田園都市思想の影響
当時の販売用パンフレット 「新町郊外生活」(30ページ)によると、まず冒頭で、東京の都市中心部の人口集中と居住環境の悪化について10ページを割いて論じている。続いて、郊外に住居を求める田園都市 の理想を述べている。この中で、明治40年に内務省 により編纂された「田園都市」から、各国の田園都市 思想や事例を紹介して、イギリス のエベネザー・ハワード の思想にも触れていた。物件自体の説明はこの後にやっと出てくる。末尾に、経営地附近略図、経営地図などがある。また、リチャード・セネット やチャールズ・ディケンズ の言葉を引用した、全体に格調高いものであった。
販売文句としては、マイホーム 所有に伴う独立自尊の精神を強調し、趨勢としての地価 高騰、更には、1-2割の頭金の他は月賦(住宅ローン )で比較的容易に手に入る点を謳っていた。
第1回分譲時の新聞広告によると、キャッチコピー は「郊外生活之新福音」であった。内容としては、文化的設備を施し、都会の利便と田園 の趣味とを調和した理想の生活を訴えるものだった。
また、雑誌広告記事では、空気がきれいで、庭には樹木や家庭菜園 があり、数羽の鶏も飼える静かな田園都市でありつつも、駅前には次々と商店が立ち並び、栄ゆく将来を強調している。
分譲初期の進捗
第一回分譲は1913年(大正2年)5月2日に50口(約3.5万坪)分の募集開始、同月15日、倍近い91口の応募があり、早々に募集終了。
1913年末までに、総分譲済分譲地が134口、4.7万坪に達する。翌1914年 (大正3年)上期に、総分譲済分譲地が147口、4.9万坪に達する。
尚、分譲の際、東京信託は現金決済のほか、分割払いの受付(貸付)も行った。
分譲後の歴史
1932年 (昭和 7年)、駒沢村深沢区画整理事業により、呑川 が改修され、両岸にソメイヨシノ が植樹された。
戦後は、一部の洋館住宅(4邸)がGHQ 将校の居住用に接収された。
東京オリンピック 開催を機に、現在の国道246号 線新町一丁目交差点から瀬田交差点 にかけて、新町一丁目と二丁目の境に国道246号線のバイパス工事が行われた。これ以降、旧来の国道246号線(玉川通り)は旧道と呼ばれるようになった。かつての新町住宅分譲地も、1960年代 に敷設された246号線と70年代 に敷設された首都高 の高架道路によって分断されるに至った。また道路の南側エリアにおいては、桜新町駅からのアクセスは却って後退した。
代表的な邸宅
長尾欽弥・よね邸
長尾欽弥はわかもと製薬 創業者。「強力わかもと」を発売した翌年の昭和5年に500坪の土地を購入後、10余年をかけて、7,800坪まで拡張した。
昭和20年12月16日 に荻窪 で自害した総理大臣・近衛文麿 が、その最期の日の直前4日間を過ごしたのが、この長尾欽弥・よね邸と言われている。
昭和29年、6,000万円で売却されたと言う。昭和38年に都立深沢高等学校 となったが、唯一離れの清明亭 が今も残り、東京都選定歴史的建造物 及び世田谷区の地域風景資産の選定を受けている[ 2] [ 3] 。
新町住宅計画の特徴
関西における、小林一三 による室町 開発に遅れること数年、関東では歴史上初となる計画的郊外分譲住宅地。その特徴は、パンフレット通り「都市生活の利便に浴すると共に田園の趣味を失わせない」という点に尽きよう。
玉川電気鉄道 の新町駅 から真南に中央を走るY字路と、その周りを走る環状道路、そしてそれらの支線道路によるゾーン構成、また中心部であるY字路の分岐点に設けられた新町倶楽部(遊園地と池など)などのコミュニティ施設などは、現代の街づくりにも通ずるものがある。環状道路の内側と南側は1区画当たり平均416坪と大きく、環状道路の西側は平均332坪、北側は195坪、東側は120坪と199坪の区画に分かれていた[ 1] 。
また、まだ都心でも十分に普及するに至っていなかった上下水道 の完備、駅との間の自動車による送迎など、インフラ や利便性では正に画期的な試みであった。
但し、分譲後の一帯の運営は、理想的田園都市の一つの要素である、長期に渡る行き届いた資産管理(Long-term stewardship of assets)という観点から疑問が残る部分もある[誰によって? ] 。
参考文献
内務省地方局有志 「田園都市と日本人」講談社 (1980年)
片木篤 「イギリスの郊外住宅 中流階級のユートピア 住まいの図書館出版局 (1987年)
石見尚 「日本型田園都市論」 柏書房 1985年
エベネザー・ハワード 長素連訳「明日の田園都市」』鹿島出版会
世田谷区立郷土資料館発行「特別展 玉電 玉川電気鉄道と世田谷のあゆみ」(1989年)
「阪神間モダニズム」 淡文社 (1998年)
橘川武郎「日本における信託会社の不動産業経営の機嫌:1906~1926年の東京信託の不動産業経営」(1995年)
旗手勲「日本資本主義の生成と不動産業」(1981年)
"Features of Suburban Town in Tokyo Development by a Taiwan companyin the 1920s - Kamikitazawa as a case for "Suburban Residential Legacy"" Hiroaki Ishii (2010)
片木 篤 角野 幸博 藤谷 陽悦 編「日本近代の郊外住宅地」 鹿島出版会 (2000年)
深沢・桜新町さくらフォーラム「深沢・桜新町100年史」 (2015年)
「新町郊外理想的住宅地」日本名所案内社
「日本不動産100年史」日本不動産株式会社 (2006年)
世田谷区教育委員会「新町住宅の話」(1987年)
世田谷区教育委員会「玉川地域-新町住宅を中心に-」(2008年)
関連項目
脚注
^ a b c “新町住宅地 ”. 世田谷区 (2021年1月12日). 2024年6月29日 閲覧。
^ “1-12 清明亭 ”. 世田谷区 (2022年3月25日). 2024年6月29日 閲覧。
^ “清明亭 ”. 世田谷デジタルミュージアム . 世田谷区. 2024年6月30日 閲覧。