平川 光伸(ひらかわ みつのぶ、1835年4月26日(天保6年3月29日) - 1891年(明治24年)6月7日)は、幕末の土佐藩士。明治時代の官吏。判事。三潴県権令。岡山地方裁判所長。諱は光伸、通称は和太郎、(小川)保馬。旧姓は小川。
経歴
尾川光久の長男として土佐国安芸郡和食村(現高知県安芸郡芸西村和食)に生まれる。土佐藩の小吏。父を継ぎ、藩の下横目職を務めた。勤王党に志を通じ、井上佐市郎暗殺事件にも関与した。のち脱藩し国事に奔走。
東山道先鋒総督府斥候として活躍。1868年(慶応4年4月)流山の戦いで近藤勇が投降するきっかけを作ったのは平川光伸、南部甕男、上田楠次の3名の策略によるといわれている。
ほか、大監察助役、鎮将府権弁事試補などを歴任し、1872年(明治5年5月)秋田県権参事に任ぜられる[4]。のち度会県参事を経て、1875年(明治8年)三潴県権令となり、1876年(明治9年)8月、退官した[4]。
1877年(明治10年)6月、判事となり[4]、同年、大阪裁判所主席判事に任じる。その後、1885年(明治18年)9月、岡山重罪裁判所長、1888年(明治21年)頃、岡山始審裁判所長、のち岡山地方裁判所長を歴任した。
1891年(明治24年)6月7日、東京大学病院で死去した。
栄典
- 位階
- 勲章等
脚注
参考文献