平岡 萬次郎(ひらおか まんじろう、1860年3月29日〈万延元年3月8日〉 - 1923年〈大正12年〉12月3日)は、日本の弁護士、政治家。衆議院議員。兵庫県平民[1]。
内務官僚・平岡定太郎の兄。定太郎の孫に作家・三島由紀夫、外交官・平岡千之がいる。
経歴
万延元年(1860年)、播磨国印南郡志方村上富木(現在の兵庫県加古川市)の農家に生まれた。父・太吉と、母・つるの長男。
15歳まで、皇道精神を基調とする鼎(かなえ)塾に学ぶ[2]。ここでは忠君愛国の講話が行われた[2]。萬次郎はやがて姫路の洋学塾へ進んだ[2]。
上京し、明治14年(1881年)明治法律学校(現在の明治大学)に入学し、明治16年(1883年)卒業[3]、更に専修学校(現在の専修大学)を卒業。東京京橋区に弁護士事務所を開業する[4]。
のち石川県専門学校(第四高等学校の前身)の講師となり、明治21年(1888年)まで教鞭を執る。同年、再び東京で弁護士に戻る。
明治31年(1898年)、郷里から衆議院議員に当選する。進歩党に入り、その後、引き続き4回当選する。
大正12年(1923年)12月3日、東京で死亡。
人物像
- 萬次郎について『兵庫県人物史』(田住豊四郎編 明治44年発行)によれば、「氏は即ち定太郎氏の令兄にして印南郡志方村の一農家に生れ、夙に学問に志し、東都に出でて、専修学校に入り、明治十六年卒業して直ちに東京に弁護士を開業して居ったが、のち石川県専門学校の講師に聘せられて二十一年迄教鞭を執り、同年再び東京に戻りて弁護士となり、今日に至る[5]。頭脳は明晰で性は温厚篤実[5]。東京弁護士会の先輩として錚々(そうそう)たるものである」[5]。また故郷の地より東京へ出て来る者は必ず氏の門をたたき、それら青年の良き指導者であり、後進子弟の為め甚だ多とすべき人物であった[6]。
- 明治31年(1898年)4月、萬次郎は当時、八丁堀にあった偕楽園に貴族院、衆議院両院および在郷の志士を集めて[7]、遼東半島還付の外交上の方針について協議し、次のようなコメントを発表した。
- 「帝国は東洋永遠の平和の為め、三国の忠言を容れて遼東の地を清国に還付し、東洋平和の保全を図りたるが、爾来未だ三年ならざるに、彼の忠言を致せる魯独の二国は、帝国に対し切偲したる曩日忠告の言質に反して、清国分割の端を啓くが如き挙動に出て、延いて東洋全体の平和に慮る所なきを得ざらしむ、帝国は三年前の歴史に照し、且つ将来百年の自衛の為めにも、此際決して緘黙を守るべきに非ず、赤心を披きて友国相交るの厚誼に訴へ、大に国際上の本道たる正義の精神を扶植するの挙なかるべからず」(報知新聞 明治31年4月6日)[6]
- 明治43年(1910年)には菩提寺の真福寺で90日間の大法要がおこなわれているが、このとき萬次郎は「金壱百円也」を寄付し、檀家一同をあつめて1週間のあいだ飲み食いさせている[8]。長男としての責任感もあったろうが、世人に慕われる性格であった[8]。
家族・親族
平岡家
- (兵庫県印南郡志方町(現加古川市)、東京都)
系図
脚注
参考文献
- 田住豊四郎編 『兵庫県人物史』 1911年
- 「三島由紀夫の無視された家系」(『月刊噂』1972年8月号)
- 板坂剛 『極説・三島由紀夫』 (夏目書房、1997年)
- 安藤武 『三島由紀夫の生涯』(夏目書房 1998年)
- 猪瀬直樹『ペルソナ 三島由紀夫伝』(文藝春秋、1995年。小学館、2001年)
- 福島鑄郎『再訂資料・三島由紀夫』(朝文社、2005年)
- 野坂昭如『赫奕たる逆光』(文春文庫、1991年)