山崎 釼二(やまざき けんじ、1902年9月19日[1] - 1958年1月31日[1][2])は、日本の政治家。衆議院議員(2期)。
経歴
静岡県駿東郡御厨町(現:御殿場市)出身[1]。1915年御殿場実業学校卒[注 1][2]。卒業後は満洲に渡り、満鉄に入るが[1]、社会主義に関心を寄せ、満鉄を退職し、帰国した[1]。帰国後は東京帝国大学に聴講生として通い[1]、帰郷。以後、農民運動の指導者になる[1]。この間、看護婦の藤原道子と結婚した[3]。
その後、労働農民党、社会大衆党に入り[1][2]。沼津市議、静岡県議を経て[1][2]。1936年の第19回衆議院議員総選挙において静岡2区(当時)から社会大衆党で立候補して初当選する。翌年の第20回衆議院議員総選挙でも再選。1942年の第21回衆議院議員総選挙には立候補しなかった。同年、日本占領中のボルネオ(現在の東マレーシア)に渡り、ケニンガウ州知事となる[1]。
敗戦により、1946年に帰国するが、戦後第1回の総選挙(第22回衆議院議員総選挙)には間に合わず、妻の道子が日本社会党公認で立候補した。しかし、ボルネオ人女性とその間に生まれた子を連れての帰国だったため、道子は衝撃を受けた[4]。道子は当選したものの、道子は釼二との離婚を決意した。釼二も日本社会党に入り、翌年の第23回衆議院議員総選挙では釼二と道子は同じ静岡2区から立候補するが、釼二は無所属、道子は社会党から立候補し、選挙の結果、道子は当選、釼二は落選した[5]。
1950年に離婚が成立した(道子はこの年から参議院に鞍替え)。釼二は翌1951年に沼津市議に再び当選[1]、1952年の第25回衆議院議員総選挙に社会党右派から立候補したが落選[5][6]、翌年、離党[1]。その後ブラジルに渡り、農園を開いた[1][2]。1958年同地で死去した。
脚注
注釈
- ^ 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』648頁では「大正7年(1918年)卒」と記載。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m 『新訂 政治家人名事典 明治〜昭和』648頁
- ^ a b c d e 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』679頁。
- ^ 『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』23頁
- ^ 『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』19頁
- ^ a b 『朝日選挙大観』508頁。
- ^ 『新しき明日の来るを信ず-はじめての女性代議士たち』31頁
参考文献