和田 定利(わだ さだとし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。織田氏の家臣。新助[注 2]。
略歴
和田宗立の次男として生まれる(『寛政重修諸家譜』)[注 3]。兄に惟政。父は、天文18年(1549年)、42歳のとき、伊賀かけの谷で討死した。
兄・惟政と共に足利義昭の入洛に供奉する。その後織田信長に仕えて尾張国黒田城を与えられた。『信長公記』によれば、織田信清の家老として黒田城主を務めたという。信清が信長に敵対すると、丹羽長秀の調略により、同じ信清家老の中島豊後守と共に信長方の兵を引き入れ[注 4]、信清は甲斐国に逃亡した。
以後は信長の侍大将となる。永禄12年(1569年)8月の伊勢侵攻に参加し、大河内城の戦いでは南の山から攻撃した[注 5]。元亀2年(1571年)の長島一向一揆攻めに参加[注 6]。
天正2年(1574年)にも中島と共に織田信忠に従い長島攻めに参加する[注 7]。この戦いで討死した。
弟・定教が跡を継いだ。
家族
○出典:『寛政譜』
兄弟
- 維政(惟政)
- 定利
- 定教 - 八郎。定利の死後、その跡を継いだ。
脚注
注釈
- ^ 『寛政重修諸家譜』には、清和源氏とも併記している。
- ^ 太田牛一 『信長公記』の表記では新介。
- ^ 「和田系図」『諸家系図纂』では伊賀守惟助とする。
- ^ 太田牛一 『信長公記』 巻首 「犬山両おとな御忠節の事」
- ^ 太田牛一 『信長公記』 巻二 「阿坂の城退散の事」
- ^ 太田牛一 『信長公記』 巻四 「大田口合戦の事」
- ^ 太田牛一 『信長公記』 巻七 「河内長島一篇に仰せ付げらるゝの事」
出典
参考文献