中村 芳中(なかむら ほうちゅう、生年不詳 - 文政2年(1819年)11月)は、江戸時代中期から後期の絵師。主に大坂で活躍。琳派に分類される絵師であるが、一般に華麗・装飾的と呼ばれる琳派にあって、素人風な大らかでユーモアある表現で近世大坂画壇に独特な存在感をもつ絵師である。
略伝
京都出身。名は徳哉。号は温知堂、達々、担板漢など。芳中は字とされるが、同時代の資料でも「鳳沖」「鳳冲」「鳳仲」「鳳中」「方仲」「方冲」「方中」「芳仲」「芳中」と様々である。芳中自身の落款・印章を見ると圧倒的に「芳中」が多く、「鳳沖」から「方中」そして「芳中」へ」改名したと推測される。生年は不明だが、江戸琳派の祖・酒井抱一とほぼ同時代人だと考えられる。生い立ちも不明だが、『伝灯録』が出典の「担板漢」(物を肩に担ぐと視野が一方に限られることから、一を知って二を知らない偏屈者の意)という別号を用いる教養や、後述する木村蒹葭堂ら文人たちとの交流から、富裕な商家の出とも言われる。
史料上の初出は、1790年(寛政2年)『浪華郷友録』に大坂内本町に住む絵師として紹介されており、既に一人前の絵師だったことがわかる。1794年(寛政6年)の『虚実柳巷方言』では「指頭ホウチウ」と記されており、指に直接絵の具を付けて描くなど、筆以外で絵を描く’’’指頭画’’’を良くしたことがわかり、実作品も残っている。画業の初期は、他に南画風の山水画も手掛けている。しかし、やがて周囲の文人や俳人たちの影響で、尾形光琳に私淑していったと考えられる。
1799年(寛政11年)江戸へ下向。この時交流があった木村蒹葭堂から選別を受け、大坂の俳人たちが「中村方中の東行をおくる」という俳諧摺物を制作している。その後も度々江戸に訪れたと考えられる。1802年(享和2年)江戸で『光琳画譜』(加藤千蔭序、川上不白跋)を刊行する。この出版は、抱一の『光琳百図』より十数年早い。ただし、その掲載作品は光琳作品を版行したのではなく、あくまで芳中が自身が「光琳風」だと思う画風で描いたもの(オマージュ)で、人物画には与謝蕪村や耳鳥斎らの影響も見て取れる。
文政2年(1819年)大坂で病没。弟子に西山芳園。他にも弟子はいたであろうが、現在にその名は伝わっていない。
代表作
脚注
- ^ a b c “アートぷらざ 千葉市収蔵作品 「白梅図」 芳中の畢生の力作 中村芳中”. 千葉日報 (千葉日報社): p. 朝刊 12. (1994年7月4日)
参考文献
- 展覧会図録
関連項目
外部リンク