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「マキノ梅太郎」は初代について説明しているこの項目へ転送されています。二代目については「大河内龍」を、幼名が中村梅太郎については「市川寿美之丞」をご覧ください。 |
中村 梅太郎(なかむら うめたろう、1907年12月30日 - 1989年5月17日)は、日本の俳優、歌舞伎役者である。本名柳川 勝好(やながわ かつよし)。
子役時代は中村 福呂(なかむら ふくろ)、マキノ・プロダクションに入社してマキノ 梅太郎(マキノ うめたろう)と名乗るが、マキノ家の人間ではない。マキノ退社後、尾上 梅太郎(おのえ うめたろう)を名乗る。出演した映画はすべてサイレント映画であった。歌舞伎界の出身であり、後に歌舞伎界に復帰した。歌舞伎役者としては中村福呂、中村梅太郎、中村梅之助、中村梅雀を名乗った。屋号は梅高屋、定紋は梅雀。
来歴・人物
1907年(明治40年)12月30日、兵庫県神戸市に生まれる[1]。
高砂屋四代目中村福助(後の3代目中村梅玉)に入門[2]、1912年(明治45年/大正元年)、4歳のときに「中村福呂」を名乗り、大阪「浪花座」で初舞台を踏む。7歳のときには、初代中村鴈治郎が浅岡を演じた『先代萩』で千松を演じた。18歳のときには、京都「三友劇場」に出演、また市川九團次一座にも参加していた[1]。
1927年(昭和2年)4月、19歳のとき、京都のマキノ・プロダクション御室撮影所に入社する。牧野省三から「マキノ梅太郎」を命名される。入社第1作は富沢進郎監督、武井龍三主演の『闇をゆく者』で、同作は同年8月5日に公開された[1]。明けて1928年(昭和3年)1月10日公開の『ひよどり草紙 第一篇』では主役を張った。また同年、梅太郎を含め、マキノ家ではないが「マキノ」姓を拝命した5人の若手俳優を「マキノ青年派」と名づけ、牧野は彼らを売り出した。結成第1作『神州天馬侠 第一篇』は同年2月3日に公開され、同年中に全4作が製作された[3]。しかし、同年5月にはマキノを退社、「尾上梅太郎」と改名して日本映画プロダクション連盟に参加した[1]。このため二川文太郎の弟子・田川通(のちの大河内龍)が二代目マキノ梅太郎を襲名、『神州天馬侠』の後半2篇は二代目が出演している[2]。
同連盟は早々に瓦解し、翌1929年(昭和4年)4月、21歳のとき、中村福太郎と改名して帝国キネマ演芸に入社した。さっそく5月公開の市川百々之助主演作『里見八犬伝』に出演、明けて1930年(昭和5年)には『地獄絵巻』にも出演した[1]。
中村梅太郎劇団で活動したのち、1942年梅玉の元に復帰。1943年中村梅之助と改名。その後歌舞伎から離れたが、1972年初代中村梅雀を名乗り関西歌舞伎に復帰した。
おもなフィルモグラフィ
- マキノ・プロダクション 「マキノ梅太郎」名義
- 帝国キネマ演芸 「中村梅太郎」名義
関連事項
註
- ^ a b c d e 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「中村梅太郎」の項(p.413)を参照。同項執筆は岡部龍。
- ^ a b 立命館大学衣笠キャンパスの「マキノ・プロジェクト」サイト内の「管家紅葉 氏談話」の記述を参照。
- ^ 『日本映画俳優全集・男優編』(キネマ旬報社、1979年)の「マキノ登六」の項(p.529)を参照。同項執筆は盛内政志。
外部リンク