チャセルはホセ・オルテガ・イ・ガセットが1925年の『Ideas sobre la novela』と『La deshumanizacion del arte』で論じた美学理論を実行した唯一の著作家である[1]。1930年3月から9月にはドイツを訪れ、ベルリン大学で講義を行った[5]。ドイツではラファエル・アルベルティ、マリーア・テレサ・レオン(スペイン語版)、Ángel Rosenblatなどと交友している[5]。1936年にスペイン内戦が勃発すると、夫のペレス・ルビオはスペイン共和国軍に入隊[6]。ペレス・ルビオはプラド美術館の所蔵品をスペイン国外に持ち出す役目を担っていた[6]。チャセルは1936年7月から1937年1月にかけて反フランコ主義の雑誌に寄稿し、さらには看護師として共和国軍に奉仕した[5]。1937年にはオラ・デ・エスパーニャ誌やエル・モノ・アスル誌に寄稿し、他の反フランコ主義雑誌にも寄稿した[5]。
フランコ政権はその末期に表現の自由に一定の理解を示し、またスペインのフアン・マルク財団(スペイン語版)から奨学金を得たこともあって、チャセルは1974年から1977年まで長期間マドリードに滞在した[5][1]。亡命中に刊行されていた作品がマドリードで再版された[1]。チャセルのもっとも著名な作品である『Teresa』(1941)、年頃の少女に誘惑される年配の男を描いた『Memorias de Letitica Valle』(1945)などが刊行されている[1]。後者はウラジーミル・ナボコフの『ロリータ』(1955)以前の作品であり、独裁体制下の1940年代のスペインでは決して出版されることのないジャンルであった[1]。さらには『La sinrazon』(1960)、『Barrio de maravillas』(1976)などもスペインで再版された。あらゆる作品に革新的なスタイルかつ率直な表現が用いられ、ペーパーバック版は幅広い人気を得た[1]。
スペイン帰国
1974年から1977年のマドリード滞在中にも頻繁にスペインとリオデジャネイロを往復していたが、1977年に夫のペレス・ルビオが死去すると、チャセルはスペインに定住することを決意した[5]。1992年には、「27年世代」の偉大な作家たちがチャセルに充てた手紙を収録した『Cartas a Rosa Chacel』が出版された[1]。
1992年にはカリフォルニア大学のスペイン語学教授であるスーザン・カークパトリックによって、ネブラスカ大学出版会から『Barrio de maravillas』の英訳が刊行された[3]。この英訳の序文でカークパトリックは、「チャセルの作品は緻密で入り組んでいる。しかしそれと同時に、決まった回答がなく動的である。結びの代わりに疑問を提示して物語を締めくくっている」と書いた[3]。1994年にはケント州立大学のスペイン語学教授であるCarol Maierによって、ネブラスカ大学出版会から『Memorias de Letitica Valle』の英訳が刊行された[3]。ブエノスアイレスで初版が刊行されてから49年後の出来事であり、この英訳は好評価を得た[3]。『Memorias de Letitica Valle』はフランス語にも翻訳されている[2]。
Santa, Àngel; Didier, Béatrice; Fouque, Antoinette; Calle-Gruber, Mireille (2013). “Chacel, Rosa (Valladolid 1898 - Madrid 1994)” (フランス語). Le dictionnaire universel des créatrices. Éditions des femmes. pp. 818.