1904年に卒業し、Quido Belsky設計事務所でプラハのヴァーツラフ広場のGrand Hotel Evropaの外装、プラハの北西約40kmにある温泉地ムシュネー(en:Mšené-lázně)のHall of Msene Springsの設計に携わった。1905年にはエジプト・カイロのPascha設計事務所に勤める。
1908年(明治41年)、ゲオルグ・デ・ラランデのドイツへの帰国(結果的には一時帰国であった)に伴い、これまで勤務していた設計事務所、「G. DE LALANDE」から、ゲオルクの父親で、建築家のオイゲン・デ・ラランデ(Eugen de Lalande)が横浜に設立した新会社「E. de Lalande Co」にKarl Horaと共に移籍し、レッツェルは、東京支店マネージャーとして、当時の四谷区東信濃町29にあった洋館を借りて引っ越した。ここには、当時、東大教授で物理学者の北尾次郎(1854〜1907)が設計した、子息の北尾富烈が所有する洋館があり、ゲオルクが再来日後は、レッツェルに代って、ゲオルクが1914年8月に急死するまで居住した。この洋館は、2014年に、江戸東京たてもの園に、デ・ラランデ邸(三島邸)として、移築復元された。なお、レッツェルの出身地、ナホトと、デ・ラランデの故郷、ヒルシュベルクは、リーゼン山地を挟んで近接しており、二人は国籍こそ異なるものの、「お互いが懐かしい同郷人そのものであった」という[2]。