フランスのファッション雑誌である Marie claire(マリ・クレール)の日本語版が、1982年に創刊された。その際、当時とうきゅう通りと称されていた当地で、自由が丘地区の商業集積の拡大に伴い駅裏という立地から雑多な業種の出店が多数企画された。そのような動きに危機感を抱いた地元商店主や地主の発案で、同時流行したCI(コーポレートアイデンティティ)を導入し、この地区のイメージ向上や集客増などを行う方策の一環として、当時の中央公論社(嶋中鵬二社長)で発刊予定であったマリ・クレール日本語版のプロモーションと連動させる故を意図し、1982年11月3日、正式に通りの愛称として採用されたものである。 このフランスとの連携は、中央公論社及びマリ・クレール・アルバム社の当時のオーナーであったマダム・プルボーの尽力と、当時の在日フランス大使館の協力で可能になった。