フィールーザーバーディーの代表的な著作『カームース・ムヒート』の冒頭ページ
マジドッディーン・フィールーザーバーディー (ペルシア語 : مجدالدین فیروزآبادی , EIr(2012)方式ラテン文字転写 : Majid al-Dīn Fīrūzābādī ; 1329年生-1415年歿)は、『カームース・ムヒート (アラビア語版 ) 』というアラビア語 の辞書を編纂したことで知られる14-15世紀ペルシア 出身の学者[ 1] 。辞書編纂学者、作家、翻訳者、裁判官(カーディー )、シャーフィイー派 法学者[ 2] 。
名前
フィールーザーバーディーの、より詳細な名前(クンヤとイスム)は、アブー・ターヒル・ムハンマド・ブン・ヤアクーブ・ブン・ムハンマド・ブン・イブラーヒームという[ 1] 。マジドッディーンのラカブがあり、シャーフィイー、シーラーズィー、フィールーザーバーディーのニスバがある[ 1] 。「フィールーザーバーディー」のニスバは、父親の出身地(フィールーザーバード )に基づく[ 1] 。「シーラーズィー」のニスバは当人がシーラーズ で学んだことによる[ 1] 。
フィールーザーバーディー自身は、父系リニージを遡るとアブー・バクル の子孫とされるシャイフ・アブー・イスハーク・シーラーズィーがいるとして、みずから「敬虔な人の子孫」を意味する「スィッディーキー」という別名を名乗ることを好んだ。
生涯
19-20世紀の東洋学者 ブロッケルマン (英語版 ) が「アラビア語辞書編纂学の研究」という論文で、複数の資料を比較衡量してフィールーザーバーディーの生涯を再構成している[ 1] 。以下の記述は主にこの論文に基づく[ 1] 。
フィールーザーバーディーは、ヒジュラ暦729年第2ラビー月又は第2ジュマーダー月(1329年2月か4月ごろ)に、カーゼルーン で生まれた[ 1] [ 注釈 1] 。生地で7歳のときまでに聖典クルアーン の章句をすべておぼえ、暗誦者 になった。8歳のときにシーラーズ へ行き、そこのウラマー のところで見習いをした[ 2] 。さらにワースィト で学んだ後、ヒジュラ暦745年(1344年前後)からバグダード で学んだ[ 1] 。ヒジュラ暦750年(1349年前後)にダマスクス で、諸学をシャーフィイー派法学者のタキーッディーン・スブキー (アラビア語版 ) に学んだ[ 1] 。ダマスクスではスブキーのほかにイブン・カイイム (アラビア語版 ) やハリール・マーリキー[ 注釈 2] にも学んだ。
伝記作家はその後のフィールーザーバーディーの生涯を「エルサレム時代」と「メッカ時代」と「イエメン時代」の3期に区分する[ 1] 。師のスブキーとの出会いと同年(ヒジュラ歴750年)にフィールーザーバーディーは、師とともにエルサレムに移り住んだ[ 1] 。そしてスブキーから師資相承 を受け、若輩ながら弟子をとった[ 1] 。エルサレムでの生活は10年間に及んだ[ 1] 。その後、旅に出るが、どこを遍歴したかは伝記作家によって大幅に異なり、確かなことはわからない[ 1] 。おそらくはカイロと小アジアを訪れたようである[ 1] 。
ヒジュラ歴770年(1368年前後)にフィールーザーバーディーはメッカ に移住した[ 1] 。20年ほど住んだのち、インド へ行くためメッカを旅立ち、デリー で5年間活動した[ 1] 。ヒジュラ歴794年(1392年前後)、ティムール朝 のスルターンの招きに応じてバグダードへ行った[ 1] 。ティムール朝がパールス地方 にまで勢力を拡大するとスルターンに伴いシーラーズにも行った[ 1] 。「跛行者」ティムール はフィールーザーバーディーに最大級の敬意を払ったが、故郷の町々は戦乱による破壊がはなはだしく、大学者を留めておけるだけの余力がなかった[ 1] 。フィールーザーバーディーはホルモズ から船に乗り、アラビア半島南部 (英語版 ) へと向かった[ 1] 。
フィールーザーバーディーは、ヒジュラ暦796年第1ラビー月(1394年1月ごろ)にヤマン(イエメン) (英語版 ) にたどり着いた[ 1] 。イエメンのスルターン 、マリク・アシュラフ・イスマーイール・ブン・アッバース[ 注釈 3] はフィールーザーバーディーを気に入り、14箇月にわたってタイズ の自邸に逗留させた[ 1] 。マリク・アシュラフはさらに、797年ズルヒッジャ月6日(1395年9月22日)にフィールーザーバーディーをイエメンの大カーディー(裁判官長) に任命し、娘を結婚させたうえザビード に住まいを与えた[ 1] 。
ヒジュラ暦802年(1400年)にフィールーザーバーディーはメッカを巡礼 し、かつて住んでいた自邸に3人の教師を置いて、穏健なマーリキー法学派 のマドラサ として運営していけるように整えた[ 1] 。その翌年、マディーナにいるときに岳父マリク・アシュラフが亡くなったことを知った[ 1] 。その後、ヒジュラ暦805年(1403年)にもメッカ巡礼をするが、この時はすぐにザビードに戻った[ 1] 。フィールーザーバーディーはヒジュラ暦817年シャウワール月20日(1415年1月3日)にザビードで亡くなり[ 1] 、シャイフ・イスマーイール・ジャブルーティー墓地[ 注釈 4] に葬られた。シャイフ・ラマダーン・アティーフィー(رمضان عطیفی)がフィールーザーバーディーの伝記を書き、顕彰している。
著作
フィールーザーバーディーは、القاموس المحيط より詳細には、القاموس المحیط و القابوس الوسیط الجامع لما ذَهَبَ مِن کلام العرب شماطیط というアラビア語辞書を編纂した。4部からなり、最も重要な著作である。日本語では『言海』という訳題例がある。本項では便宜的に『カームース・ムヒート (アラビア語版 ) 』と呼ぶ。
60巻からなるそれを要約し、للامع المعلم العجاب الجامع بین المحکم و العباب として2巻にまとめた。بصائر ذوی التمییز فی لطائف الکتاب العزیز は2巻本。
その他、フィールーザーバーディーの作ったタスニーフ形式の抒情詩 が40ほど知られる。
注釈
^ 『ブリタニカ百科事典』はフィールーザーバーディーの出生地をカールズィーン (ペルシア語版 ) としている[ 2] 。
^ شیخ خلیل مالکی
^ al-Malik al-Ašraf Ismāʻīl b. ʻAbbās
^ شیخ اسماعیل جبروتی
出典