- ベルク伯領
(1007年-1380年)
ベルク公国
(1380年-1806年)
(1813年-1815年)
ベルク大公国
(1806年-1815年)
- Grafschaft (Herzogtum) Berg
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(国旗)
| (国章)
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1560年ごろのベルク公国(赤色)-
ベルク公国(ベルクこうこく、ドイツ語: Herzogtum Berg)は、神聖ローマ帝国の領邦国家。首都はデュッセルドルフ。12世紀に成立し、17世紀まで独立国家としての地位を保った。その領域はおおよそライン川、ルール川、ジーク川に囲まれた地域に広がっており、現在のドイツ、ノルトライン=ヴェストファーレン州の一部に相当する。ベルク公国の国名は、現在のベルギッシェス・ラント地方(英語版)に受け継がれている。
また1806年から1813年まで、フランス帝国の衛星国家ベルク大公国(ベルクたいこうこく、独: Großherzogtum Berg、仏: Grand-duché de Berg)でもあった。
歴史
ベルク伯領は、11世紀にニーダーライン地方で最大の勢威を誇り、ロタリンギア宮中伯の地位にあったエッツォ家の傍系が創始した。1160年、ベルク伯領が分割されてマルク伯領が創設されたが、この2つの領邦は16世紀になると再び統合されることになる。
初期のベルク伯の中で最も勢力の強かったのは、ケルン大司教を務めたエンゲルベルト2世である。エンゲルベルト2世は1225年11月7日に暗殺され[1][2]、ローマ・カトリック教会によって聖人に列せられた。1288年、アドルフ5世(8世)は敵対関係にあるゲルデルン公国と戦うためにヴォーリンゲンの戦い(英語版)に参加し、味方と共に勝利を収めている。
ベルク伯領の勢力は14世紀に大きく伸長した。ベルクは1348年にユーリヒ伯領を獲得し[3]、1380年には公爵領への昇格を認められた。公爵となったヴィルヘルム2世は、宮廷をゾーリンゲンのヴッパー川 (en) 河畔にあるブルク城 (en) から、ライン川に面したデュッセルドルフに移した。1423年、ベルク公アドルフがユーリヒ公国を相続すると、君主を同じくする2公爵領はユーリヒ=ベルク公国と呼ばれるようになった。
1509年、クレーフェ公国及びマルク伯領の支配者ヨハン3世はユーリヒ=ベルク公国及び付属のラーヴェンスベルク伯領を入手するため、ユーリヒ=ベルク公ヴィルヘルム4世の娘マリアと政略結婚した。神聖ローマ帝国諸邦の相続に適用されるサリカ法典では、女子相続人の夫がその財産の所有者となれるためである。1521年にヴィルヘルム4世の死によってユーリヒ=ベルク公爵家の男系が絶えると、ヨハン3世がその領国を獲得した。この結果、ヨハン3世を共通の君主とするユーリヒ=クレーフェ=ベルク連合公国が成立した。連合公国は現在のノルトライン=ヴェストファーレン州の大部分を占めるものだった(残りの領域としてはケルン大司教領、ミュンスター司教領 (en) が存在した)。
しかし新たな公爵家も、最後の当主ヨハン・ヴィルヘルムが精神異常のまま死んだことで1609年には断絶した。広大な連合公国の相続をめぐってプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ルートヴィヒとブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントとの間でユーリヒ=クレーフェ継承戦争が起きたが、1614年に妥協が成立し、ユーリヒとベルクの2公国はプファルツ=ノイブルク公ヴォルフガング・ヴィルヘルムが、クレーフェ公国とマルク伯領はブランデンブルク選帝侯ヨハン・ジギスムントが相続した。プファルツ=ノイブルク家は1685年に本家からプファルツ選帝侯の座を継承し、1777年にバイエルン選帝侯位を継承するまではベルク公国の首都デュッセルドルフを主要な居所としていた。
ベルク大公国
1794年、ユーリヒ公国がフランス革命戦争中にフランス共和国軍によって占領され、1423年より連合関係にあったベルク公国とユーリヒ公国は分裂した。1803年、バイエルン選帝侯マクシミリアン4世ヨーゼフはベルク公国とその他のヴィッテルスバッハ家領とを分離し、ベルク公国の統治を同族で義兄のバイエルン公ヴィルヘルムに任せた。
1806年、神聖ローマ帝国の解体に伴うドイツ諸邦の再編に伴い、バイエルン王国を創設したマクシミリアン・ヨーゼフはアンスバッハ侯領と引き換えにフランス皇帝ナポレオンにベルク公国を譲渡した。1806年3月15日、ナポレオンは義弟のジョアシャン・ミュラにベルク公国とクレーフェ公国のライン左岸地域(東部)を領国として与えた。2つの公爵領を獲得したミュラは、大提督と陸軍元帥の地位を示す錨とバトン紋からなる自分の紋章に、ベルク公国の赤獅子の紋章とクレーフェ公国の紋章を加えた。1806年6月12日にミュラはライン同盟に加盟し、ベルク大公を名乗った。その後、ベルク大公国はマルク伯領、ミュンスター司教領、帝国都市ドルトムント、ニーダーライン=ヴェストファーレン・クライス (en) に所属する群小の諸邦を併合して拡大を続けた。
ミュラが1808年にナポリ王国の統治者になると、ベルク大公国は短期間ナポレオンを君主としてフランス帝国と同君連合になった。翌1809年、ナポレオンは弟のオランダ王ルイ・ボナパルトの息子で当時5歳のナポレオン・ルイ・ボナパルトをベルク大公に任じた。しかし実際にはナポレオン・ルイの名の下にピエール=ルイ・ロデレール (en) をトップとする一群のフランス人官僚による統治が行われた。1810年、ナポレオン・ルイが9日間だけオランダ王の座にあったとき、ベルク大公国とオランダ王国は同君連合であった。
1813年のライプツィヒの戦いでフランス帝国軍が決定的な敗北を迎えると、短命なベルク大公国の命運は尽きた。大公国領はプロイセン王国政府に接収され、1815年のウィーン会議の最終決定によって正式にプロイセンに併合された。旧ベルク公国の領域はユーリヒ=クレーフェ=ベルク県 (en) に、マルク伯領とミュンスター司教領はヴェストファーレン県 (en) にそれぞれ併合された。
歴代ベルク領主
ベルク伯
- ベルク=アルテナ家
- アドルフ1世(在位:1077年 - 1082年、ケルダッハガウの伯)
- アドルフ2世(在位:1082年 - 1093年、ケルダッハガウの伯)
- アドルフ1世(3世)(在位:1093年 - 1106年)
- アドルフ2世(4世)(在位:1106年 - 1160年)
- エンゲルベルト1世(在位:1161年 - 1189年)
- アドルフ3世(6世)(在位:1189年 - 1218年)
- エンゲルベルト2世(在位:1218年 - 1225年)
- リンブルク=アルロン家
- ユーリヒ=ハインバッハ家
- ゲルハルト(在位:1314年 - 1360年) - ラーヴェンスベルク伯
- ヴィルヘルム2世(在位:1360年 - 1408年) - 1395年までラーヴェンスベルク伯、1380年にベルク公爵に昇格
ベルク公
- ヴィルヘルム2世(在位:1380年 - 1408年)
- アドルフ(7世)(在位:1408年 - 1437年) - 1423年よりユーリヒ公
- ゲルハルト2世(在位:1437年 - 1475年) - ユーリヒ公、ラーヴェンスベルク伯
- ヴィルヘルム(在位:1475年 - 1511年) - ユーリヒ公、ラーヴェンスベルク伯
- マルク家
- ヨハン(在位:1511年 - 1539年) - ユーリヒ公、ラーヴェンスベルク伯、1521年よりクレーフェ公およびマルク伯
- ヴィルヘルム5世(在位:1539年 - 1592年) - ユーリヒ公、クレーフェ公、ラーヴェンスベルク伯、マルク伯
- ヨハン・ヴィルヘルム1世(在位:1592年 - 1609年) - ユーリヒ公、クレーフェ公、ラーヴェンスベルク伯、マルク伯
- ヴィッテルスバッハ家(プファルツ=ノイブルク系)
- ヴィッテルスバッハ家(プファルツ=ズルツバッハ系)
- カール・テオドール(在位:1742年 - 1799年) - プファルツ選帝侯、プファルツ=ノイブルク公、1777年よりバイエルン選帝侯
- ヴィッテルスバッハ家(プファルツ=ビルケンフェルト=ビシュヴァイラー系)
ベルク大公
系図
脚注
参考文献
- 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年
- Jiří Louda, Michael Maclagan, Lines of Succession, Little, Brown & Company, 1981.
関連項目
外部リンク