ローソンは1876年10月2日からユールンデリーの学校に通い始めたが、同時期に耳の病気にかかり、耳が遠くなった。14歳までには完全に聴覚を失った。彼はその後、8km離れたマジー(Madgee)にあるカトリックの学校に通った。そこで、教員のケヴァンという人物から詩のことを習ったようである。ローソンはディケンズとマリアットの愛読者であった。また"Robbery under Arms" や "For the Term of his Natural Life"などのシリーズものも好んだ。おばに与えられたブレット・ハートの著作も読んだ。読書は、彼の教育において大きな比重を占めるようになった。聾者であった彼には、学校での正規教育は上手くいかなかったからである。
最初に活字になったローソンの詩は"A Song of the Republic"で、これは1887年10月1日に、彼の母の急進的な友人たちが勢力を持っていた雑誌『ブレティン』(The Bulletin)に掲載された。続いて"The Wreck of the Derry Castle"、そして"Golden Gully"が発表された。
ローソンの最も成功した散文の作品集は、1896年に出版された"White the Billy Boils"である[8]。その中で、彼は「パターソンおよびロマンティックな人々への攻撃を継続し、オーストラリアン・リアリズムとでも言うべき流れを作り出しつつあった」[5]。エルダーは以下のように書いている。「彼は短く、鋭いセンテンスを使用した。その文体は後のヘミングウェイやレイモンド・カーヴァーのそれの原型であった。最小限の形容詞、徹底的に切り詰められた描写により、ローソンは1つのスタイルを確立し、オーストラリア人というものの輪郭……無愛想に寡黙で、熱烈に平等主義的、そして心底から人道的……をはっきりと示した[5]。「胸の張り裂けるような、荒涼と孤独の描写」で知られる『家畜追いの妻』("The Drover's Wife")は、彼の最上の短編の1つだと見なされている[5]。この作品は学校の教材として使用され、また映画や演劇にもなっている[9][10][11]。
ローソンはスケッチ・ストーリー(sketch story)[12] の利点を強固に信奉しており、"the sketch story is best of all"(スケッチ・ストーリーは全てに勝る)との言葉を残している[13]。ローソンの「ジャック・ミッチェル」譚の1つ、"On the Edge of a Plain"は、最も完成度の高いスケッチの例としてしばしば言及される[13]。
オーストラリア人の大多数と同様、ローソンは都会暮らしであった。しかし奥地での暮らしも少なからず経験しており、彼の作品の大半はブッシュにおける実生活の体験に基づいている。1898年の時点では、彼はシドニーでボヘミアンのクラブであるDawn and Dusk Club(夜明けと日暮れクラブ)の著名な会員となっており、作家仲間たちと会って飲酒と会話を楽しんでいた。
晩年
晩年、彼はアルコール中毒の作家ではあったが、恐らくオーストラリアで最もよく知られた名士であった。同時に、彼はまたシドニーの路上では常習的に乞食をしていた。彼は泥酔および妻への離婚手当の不払いによりダーリングハースト刑務所に収監された。この経験は印象的な詩"One Hundred and Three"(百と三)に記録され、1908年に発表された(103というのは彼の受刑番号である)。ローソンはダーリングハースト刑務所(Durlinghurst Gaol)を「スターヴィングハースト刑務所」("Starvinghurst Gaol")[14] と呼んでいる。入所者に与えられる食事が極めて不充分だったからである。