ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト侯カール・アルブレヒト2世と、その2番目の妻でハンガリー出身の男爵令嬢レヴィツキー・ユーディタの間の四男。1796年の父の死で長兄のカール・アルブレヒト3世が後を継いだ。次兄と三兄はフランス革命戦争で戦死したため、侯家の実質的な次男となった。1806年の神聖ローマ帝国消滅の過程で、多くの分家を擁するホーエンローエ家一門の全所領は陪臣化され、大部分がヴュルテンベルク王国に帰属したが、ホーエンローエ=ヴァルデンブルク=シリングスフュルスト家のごく狭小なシリングスフュルストの所領のみがバイエルン王国に帰属した。1807年4月、カール・アルブレヒト3世は相続協定を結んでシリングスフュルスト城(ドイツ語版)とその付属所領を四弟フランツに譲渡し、新しい分流ホーエンローエ=シリングスフュルスト家の創設を認めた。シュタンデスヘルとして、1819年から1840年までバイエルン王国議会の参議院(貴族院)議員を務め、またバイエルン王国軍の名誉(à la suite)陸軍少将の肩書を保持した。
1840年、長男ヴィクトルは成年に達すると、シリングスフュルスト侯領の相続権を放棄して、プロイセン王国のラティボル公爵及びコルヴァイ侯爵(Herzog von Ratibor und Fürst von Corvey)の爵位を受けた。翌1841年のフランツの死後、息子たちは父と方伯(義伯父)の所領の分割に際して新たに相続協定を結び、長男ヴィクトルがラティボルを、次男クロートヴィヒがラティボル・コルヴァイ公子(Prinz von Ratibor und Corvey)の称号を得てラティボル=コルヴァイ公家の弟系(zweiter Majoratsherr)を創設した上でコルヴァイを[2]、三男フィリップ・エルンストがシリングスフュルストを、それぞれ相続することにした。ところがフィリップ・エルンストは1845年に25歳の若さで独身のまま亡くなり、クロートヴィヒが急遽実家のシリングスフュルスト侯爵家を継ぎ、コルヴァイの所領の継承を断念した。フランツは、プロイセンのラティボル=コルヴァイ家(Hause Ratibor-Corvey)、バイエルン系とオーストリア系に分かれたホーエンローエ=シリングスフュルスト家(Hause Hohenlohe-Schillingsfürst)の始祖となった。子孫の領地は通婚などにより、プロイセンやバイエルンのみならず、ボヘミアやロシア帝国領にも広がった。
Hans Friedrich v. Ehrenkrook, Jürgen von Flotow, Friedrich Wilhelm Euler: Genealogisches Handbuch der Fürstlichen Häuser, Band IV, I. Abt. (ehem. reg. Häuser), Band 14 der Gesamtreihe GHdA, C. A. Starke, Glücksburg/Ostsee 1956, S. 232–235. ISSN0435-2408.
Günter Tiggesbäumker: Das Herzogliche Haus Ratibor und Corvey. Mit einem Vorwort von Viktor Herzog von Ratibor. Fürstliche Bibliothek Corvey, 2016.
^Günter Tiggesbäumker: Das Herzogliche Haus Ratibor und Corvey. Corvey 2016, S. 16
^HOHENLOHE, Online-Gotha von Paul Theroffs, SECTION 4: HOHENLOHE-WALDENBURG-SCHILLINGSFÜRST, HOHENLOHE-SCHILLINGSFÜRST, and the Dukes von RATIBOR, Fürsten von CORVEY, 11a) FRANZ JOSEPH Fst zu Hohenlohe-Schillingsfürst (Kupferzell 26 Nov 1787-Corvey 14 Jan 1841)