1818年にベルワルドは『音楽新聞』(Musikalsk journal)を創刊(のちフランス語のJournal de musiqueに名称変更)、これは自作も含めて、さまざまな作曲家による簡単なピアノ曲を載せた季刊誌であった。1821年に「ヴァイオリン協奏曲嬰ハ短調」が弟アウグストにより初演されるが、評判は芳しくなく、緩徐楽章の最中に笑い出す聴衆さえいた。
交響曲第1番ト短調「厳粛な(Serieuse)」は、ベルワルドの生前に初演された唯一の交響曲で、1843年に従兄弟ヨハン・フレデリックの指揮により、宮廷歌劇場管弦楽団により上演された。その演奏会では、ベルワルドのオペレッタ「修道院参り(Jag gar i kloster)」もとりあげられたが、その成功はイェニー・リンド(Jenny Lind)のおかげであると見なされている。
ベルワルドのオペラのうち、存命中に上演されたものは数少ないが、その1つ「ソリアのエストレッラ」は1862年4月に宮廷劇場で初演された際、大いに喝采を浴び、同月のうちに4回追加公演が行われた。この成功に続いて「ゴールコンダの女王('Drottningen av Golconda)」が作曲され、1864年に上演される運びになっていたが、宮廷歌劇場の監督者の交代により実現されなかった。
1867年、スウェーデン王立音楽アカデミーは、それまで彼の志願をはねつけてきたにもかかわらず(最初の応募から実に22年が経過していた)、死の直前になってベルワルドをストックホルム音楽院の作曲と器楽の教授に任命した[1]。1864年の投票で否決され、3年後にさらに否決されたが、任命されたヘルマン・ベーレンスがベルワルドに職を譲って辞任するという形になった[1]。
その頃にはJ. C. F. ヘフナー(英語版)によるスウェーデン語の賛美歌改訂など重要な依頼が舞い込んでいたが、賛美歌集は第5集までの59曲が完成したのみで、それを完遂できるだけの寿命が彼には残されていなかった[1]。
エドゥアルト・ハンスリックは、1869年の著書『ウィーンの演奏会の歴史Geschichte des Concertwesens in Wien』の中で、ベルワルドのことを「人となりは刺激的で機転に富むが、奇抜なきらいがあった。作曲家としては創作力や想像力に欠けていた」と開陳している。一方で、ベルワルド亡き後の作曲家のルードヴィグ・ヌールマンやトール・アウリン、ヴィルヘルム・ステーンハンマルらが、ベルワルド作品の普及に尽力したため、ベルワルドがスウェーデンの「最も独創的で近代的な作曲家」(ヴィルヘルム・ペッテション=ベリエル著『Dagens nyheter』)として理解されるのに、そう長くはかからなかった。カール・ニールセンはベルワルドについてこう述べた。「メディアや金や権力は、すぐれた芸術を害することも、役立つこともできない。そうした例は、自作のために前進し、創作し、立ち上がる実直できちんとした芸術家たちのうちに、いつでも見出せる。スウェーデンにその最上の例がある――ベルワルドだ。」