同年の総選挙で自邸近くのライ選挙区(英語版)からの出馬を表明したが、十分な支持を得られず、投票日までに撤退した[3]。1705年イングランド総選挙で再び落選するも、トーリー党候補2人(フィリップ・ハーバートとエドワード・サウスウェル(英語版))が21票でホイッグ党候補2人(ギボンとチャールズ・ファッグ(Charles Fagg))が19票と僅差だったため、ギボンとファッグは選挙申し立てを提出した[3]。1度目の申し立ては審議されなかったが[3]、落選への補償の一環として1706年3月にケントで裁判官に復帰した[2]。1706年12月4日に提出した2度目の申し立ては1707年1月に審議され、投票を拒否された自由市民(freeman)数名に投票権があったかどうかについてが争点となった[3]。この申し立ても最終的には1月23日に僅差で却下されたが、11月にハーバートが海軍傷病者委員会(英語版)の委員(commissioner for sick and wounded、庶民院議員と兼任できない官職)についていることが発覚したため、急遽補欠選挙が行われる運びになり、ギボンはこの補欠選挙で五港長官のジョージ・オブ・デンマークの支持を受けて無投票当選を果たした[3]。
ステュアート朝における議会活動でホイッグ党員として貢献したため、ジョージ1世が即位してハノーヴァー朝が始まるとアイルランド歳入官(Commissioner of Revenue for Ireland)の1人に任命された[2]。直後の1715年イギリス総選挙ではノリスとともに無投票で再選した[4]。2人がライの自治体(corporation)のパトロンになったため、2人は1749年にノリスが、1762年にギボンが死去するまで1議席ずつ指名することとなった[4]。これはギボンが野党に転じた時期においても同じだった[4](後述)。
1742年初に首相ロバート・ウォルポールが辞任すると、パルトニーら野党派が政権を握り、初代ウィルミントン伯爵スペンサー・コンプトンが首相(第一大蔵卿)に就任するとともにギボン、サンズ、ラッシュアウトも下級大蔵卿(Lord of Treasury)に就任した[5]。大蔵卿委員会の定員が5名だったため、ギボン、サンズ、ラッシュアウトの3人は採決の結果を操ることができ、ウィルミントンは名目上の第一大蔵卿でしかなかった[5]。1743年にウィルミントンが死去してヘンリー・ペラムが首相に就任すると、サンズとラッシュアウトは下級大蔵卿を解任されたが、ギボンはウォルポールが「道理をわきまえた」(reasonable)と評している[注釈 1]こともあって一旦は留任、1744年末の第2代グランヴィル伯爵ジョン・カートレット解任に伴いギボンも解任された[5]。
^ abcdefghijkHanham, Andrew A. (2002). "Rye". In Hayton, David; Cruickshanks, Eveline; Handley, Stuart (eds.). The House of Commons 1690-1715 (英語). The History of Parliament Trust. 2020年11月11日閲覧。
^ abHasted, Edward (1798). "Parishes: Rolvenden". The History and Topographical Survey of the County of Kent (英語). Vol. 7. Cantebury. pp. 183–200. British History Onlineより。