ハリー・ムワンガ・ンクンブラ(英語:Harry Mwaanga Nkumbula)は、ザンビアの政治家。 ハリー・エンクンブラ、ハリー・ヌクンブラとも。
生涯
1916年、イギリス保護領北ローデシアのマアラ(Maala)村に生まれ、メソジスト系のミッション・スクールで教育を受けた[1]。1944年から1946年までウガンダにあるマケレレ大学に通い、1946年に奨学金を得てロンドン大学に入学、教育学の学位を取得し、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで政治学と経済学を2年間学んだが学位を取得せずに退学し、1950年北ローデシアに帰国した[1]。
1951年、アフリカ人民族会議(African National Congress、ANC、国民会議派とも)の党首に選出される[1]。1953年にはケネス・カウンダがANC書記長となり、ンクンブラの右腕となった[2]。1958年、党首ンクンブラに対し「白人の影響を過度に受け態度が軟化している」としてカウンダの指導する若手急進派が反発、ANCを離脱して分派(後の統一民族独立党 (UNIP) )を結成した[1][3][4][5]。1964年に北ローデシアがイギリスから独立しザンビア共和国となると、ンクンブラと決別してUNIPを率いたカウンダがザンビア大統領となり、ンクンブラは連立パートナーとなるもキャリアの多くをカウンダに対する批判に費やした[1]。
1983年10月8日、ルサカのルサカ大学病院で死去した[1]。
脚注
- ^ a b c d e f "Harry Nkumbula Dies; Led African Congress". The New York Times. 1983-10-10. Retrieved 2020-05-30.
- ^ 世界の動き社 編『世界の動き』(3)(283),世界の動き社,1974-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2754230 (参照 2023-12-06), p.23
- ^ ロナルド・シーガル 著 ほか『アフリカの横顔』上,時事通信社,1964. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2988623 (参照 2023-12-06), p. 138
- ^ アフリカ協会 編『Africa = アフリカ』5(8)(50),アフリカ協会,1965-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/6049204 (参照 2023-12-06), p.18
- ^ 星野芳樹 (1965年). “動乱のアフリカを行く”. ダイヤモンド社. pp. 75-76. 2023年12月6日閲覧。