この音楽院はもともと修道院であったサン・セバスティアーノ(San Sebastiano)の教会に入居しており、1807年[注 1]に設立されたサン・セバスティアーノ音楽院(Conservatorio di San Sebastiano)だった。これはサンタ・マリア・ディ・ロレート音楽院(Santa Maria di Loreto)、サントノフリオ・ア・ポルタ・カプアーナ音楽院(Sant'Onofrio a Porta Capuana)、ピエタ・デイ・トゥルキーニ音楽院(Pietà dei Turchini)が合併したものである。音楽院はレアル・コッレージョ・ディ・ムージカ(Real Collegio di Musica)としても知られるようになり、1826年以降は現在の場所に移動してサン・ピエトロ・ア・マイエッラ音楽院となった[2][3]。
サン・ピエトロ・ア・マイエッラはナポリの地で営まれてきた長い音楽院の歴史において、最も新しいものである。その始まりは16世紀初頭、町のスペイン統治下での属州化の時期に遡る。当時存在した音楽院は「サンタ・マリア・ディ・ロレート」、「ピエタ・デイ・トゥルキーニ」、「サントノフリオ・ア・カプアーナ」と「ポーヴェリ・ディ・ジェズ・クリスト Poveri di Gesù Cristo」であった。これらの音楽学校は子どもを教会音楽に慣れさせる土壌としてのみならず、17世紀の始めに一度は花開いた商業音楽の世界への養成学校として、名声を博していたのである。
サンタ・マリア・ディ・ロレート音楽院
1537年創立のこの音楽院は、スペインが有名な総督Pedro Álvarez de Toledoの下、ナポリの町に勢力を伸ばしてき始めた際には運営されていた、ナポリ市に元々あった音楽学校である。また、初めての宗教音楽の学校である[4]。この学校の卒業生にはチマローザがいる。古地図によると、この音楽学校は町から離れた海際の区画である「ボルゴ borgo」に建っていたことになっている。このため、学校の建物はナポリに対する南東方向からの攻撃に備えるスペインの要塞として、優れた機能を発揮することになった。
この音楽院はフランシスコ会の修道士マルチェッロ・フォッサターロ(Marcello Fossataro)が、1589年に設立したものである。建物はデイ・トリブナーレ通り(Via dei Tribunale)のサンタ・マリア・コロンナ(Santa Maria Colonna)教会に隣接している。この学校に縁の深い著名人は、1620年から1627年に文法の指導者だった哲学者のジャンバッティスタ・ヴィーコである。この音楽院における音楽の分野での著名人はフランチェスコ・ドゥランテ、ガエターノ・グレコ、ニコラ・ポルポラ、ジョヴァンニ・ペルゴレージなどである。この音楽学校は1743年11月で閉校させられ、司祭養成の神学校へと改組することになった[5]。
^Olmstead, Andrea (1999). Juilliard: a history. Urbana, Illinois: University of Illinois Press. ISBN0-252-02487-7
^Di Benedetto & Fabris 2001 (suppression of the Conservatorio dei Poveri di Gesù Cristo)
参考文献
Di Benedetto, Renato; Fabris, Dinko (2001). "Naples. 3: The Spanish era (1503–1734). (vi) The conservatories." in Sadie 2001.
Di Giacomo, Salvatore (1924). I quattro antichi conservatori di musica a Napoli (The Four Ancient Music Conservatories of Naples). Milan: Sandron
Florimo, Francesco (1882). La scuola musicale di Napoli e i suoi conservatori, con uno sguardo sulla storia della musica in Italia (The Music School and Conservatories in Naples, with a look at the musical history of Italy). Four volumes.. Napoli: Morano