チョスバル(モンゴル語: Čosbal、中国語: 搠思班、生没年不詳)は、モンゴル帝国の第5代皇帝クビライ・カアンの庶子の西平王アウルクチの孫で、モンゴル帝国の皇族。『元史』などの漢文史料では搠思班(shuòsībān)、『集史』などのペルシア語史料ではشاسگبه(shāsgba)と記される。
概要
チョスバルはアウルクチの子でチベット方面の経略を委ねられたテムル・ブカの息子として生まれ、「鎮西武靖王」の地位を得て父の活動を継承した[1]。
クルク・カアン(武宗カイシャン)、ブヤント・カアン(仁宗アユルバルワダ)、ゲゲーン・カアン(英宗シデバラ)の3人の皇帝の治世においてチベット方面の平定に尽力し、叛乱を起こした諸族を討伐したことが記録されている[2][3][4]。
アウルクチ西平王家
- セチェン・カアン(世祖クビライ)
- 西平王アウルクチ(A'uruγči >奥魯赤/àolŭchì,اوغروقچى/ūghrūqchī)
- 鎮西武靖王テムル・ブカ(Temür Buqa >鉄木児不花/tiĕmùér bùhuā,تیمور بوقا/tīmūr būqā)
- 雲南王ラオディ(Laodi >老的/lǎode)
- 鎮西武靖王チョスバル(Čosbal >搠思班/shuòsībān,شاسگبه/shāsgba)
- 西平王バディマディガ(Badimadiga/Iǰil Buqa >八的麻的加/bādemádejiā,ایجىل بوقا/yījīl būqā)
チョスバルの娘は、高麗第28代王忠恵王に降嫁した亦憐真班。
脚注
- ^ 『元史』巻21成宗本紀4,「[大徳十年二月]戊辰、車駕幸上都。賜安西王阿難答・西平王奥魯赤・不里亦鈔三万錠、南哥班万錠、従者三万二千錠。鎮西武靖王搠思班所部民饑、発甘粛糧賑之」
- ^ 『元史』巻23武宗本紀2,「[至大二年秋七月]壬辰,宣政院臣言「武靖王搠思班与朶思麻宣慰司言『松潘畳宕威茂州等処安撫司管内、西番・禿魯卜・降胡・漢民四種人雑処、昨遣経歴蔡懋昭往蛇谷隴迷招之、降其八部、戸万七千、皆数百年負固頑獷之人、酋長令真巴等八人已嘗廷見。今令真巴謂其地鄰接四川、未降者尚十餘万。宣撫司官皆他郡人、不知蛮夷事宜、才至成都灌州、畏懼即返、何以撫治。宜改安撫司為宣撫司、遷治茂州、徙松州軍千人鎮遏為便』。臣等議、宜従其言」。詔改松潘畳宕威茂州安撫司為宣撫司、遷治茂州汶川県、秩正三品、以八児思的斤為宣撫司達魯花赤、蔡懋昭為副使、並佩虎符」
- ^ 『元史』巻26仁宗本紀3,「[延祐六年三月]辛酉、斡端地有叛者入寇、遣鎮西武靖王搠思班率兵討之」
- ^ 『元史』巻28英宗本紀2,「[三年三月]丁未、西番参卜郎諸族叛、勅鎮西武靖王搠思班等発兵討之」
参考文献