チャールズ・ジョージ・ゴードン (Charles George Gordon 、1833年 1月28日 - 1885年 1月26日 )は、英国 の軍人 。太平天国の乱 の時、民兵 組織の常勝軍 を率いて活躍、その後、スーダン のハルツーム で戦死した。
生涯
チャールズ・ゴードンは、大英帝国 陸軍砲兵隊H.W.ゴードン将軍の4男として誕生し、その後、王立陸軍士官学校 に入り、1852年 に少尉 に任官した。
清 朝の官服を着用したゴードン
1860年 に第二次アヘン戦争 が始まると、清 に赴任し、1862年 まで北京 に駐留していたが、太平天国からの防衛のためウィリアム・ステイヴリー(en:William Staveley )将軍の部隊が上海 に派遣されると、その一員として同行した。当時、上海では外国人の権益を守るため米国人ウォード が常勝軍 と名付けた民兵軍を組織しており、英軍はこれと連合し太平天国軍と戦った。ウォードが戦死すると、淮軍 の司令官李鴻章 は代わりの司令官を英軍から出すよう要請したため、ステイヴリー将軍はゴードンを常勝軍の司令官に推薦した。英軍少佐 だったゴードンは、1863年 に常勝軍の司令官となり、以降、1864年 に太平天国が壊滅するまで各地を転戦し、乱の鎮圧に功績を挙げた。
乱終結後、清朝から軍の最高官職を受けた。英国は彼を英軍中佐 に昇進させ、バス勲章 (コンパニオン)を与えた。ゴードンは、この後、本名をもじってチャイニーズ・ゴードンと呼ばれるようになる。
アル=ズバイル・ラーマ・マンスール
本国に帰って、1873年 まで英国軍人として各地の任務についたが、エジプト (ムハンマド・アリー朝 )の総督 イスマーイール・パシャ の招きを受けて、英国の了解の元、スーダン 南部赤道州 の総督となった。1876年 にエジプトのスーダン・ハルツーム総督と争い、一旦辞職するが、イスマーイールの慰留を受け、スーダン全土の総督になる。アビシニア との紛争や奴隷商人としてスーダン一帯を事実上支配していたアル=ズバイル・ラーマ・マンスール (英語版 ) の反乱をよく抑えていたが、1879年 にアビシニアで捕虜となり、解放された後、スーダン総督を辞任しロンドンに戻った。
その後、ベルギー からコンゴ 植民地、インド総督 から秘書官に、英国の中国領事館から誘われ赴任したが、いずれも長続きしなかった。1881年 に英軍に戻り、1882年 には少将 に昇進した。
その間、エジプトは北部のアラブ人反乱に悩まされ、スーダンの反乱 に対応しきれなかった。既に実質上エジプトの支配権を握っていた英国は、1883年にエジプトにスーダンを放棄するよう命じたが、エジプト軍の撤退は困難を極めたため、英国総督はゴードンに対し、ハルツームに行き撤退を指揮するよう要請した。
ジョージ・W・ジョイ の描いたゴードンの最期。高潔な死とのイメージを高めた。
1884年 にゴードンはハルツーム に到着したが、やがて、マフディー 運動(マフディー思想自体はイスラム教 のスーフィズム の一種と看做される)の反乱軍に包囲された(ハルツーム包囲戦 )。英国はスーダンを放棄する方針だったが、世論はゴードンの救出を要求したため、救援軍が派遣された。しかし、1885年 1月28日 に援軍はハルツームに到着したが、その2日前にゴードンの部隊は全滅していた。英国における彼の人気は高く、この救出の失敗は当時のグラッドストーン 内閣が退陣する原因のひとつとなった(グラッドストーンの愛称はGOM(偉大なる老人、Grand Old Man)だったが、反対派はMOG(ゴードンの殺人者、Murderer of Gordon)と呼んだ)。
ゴードンに関連した作品
映画
外部リンク
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