ダッジ・バイパー GTS-R (Dodge Viper GTS-R)は、ダッジ・バイパー をベースに開発されたレーシングカー である。
1995年 にアメリカのクライスラー 、フランスのオレカ 、イギリスのレイナード と共同で開発され、同年のペブルビーチコンクール で正式発表。その歴史の中で、数々のチャンピオンシップやレースで勝利を収めてきた。
なお、ダッジ名義でエントリーしていたのは北米のみで、それ以外の地域ではクライスラー・バイパー GTS-R (Chrysler Viper GTS-R)としてエントリーしていた。
開発
バイパーのレース活動は発売から間もない1990年代初頭、オープントップ モデルのRT/10をベースにプライベーターが開発したレーシングマシンに端を発する。北米やヨーロッパにおけるツーリングカーレース への投入を目指していたが、オープントップのボディはクーペ ボディと比較して剛性で大きく劣っており、開発資金も不足していたため満足な改良ができず、この試みは失敗に終わった。
そのような中、1995年に行われたマイナーチェンジにおいてクーペボディを持つGTSが追加される。このGTSはバイパーが苦戦していたヨーロッパでの販売を増強すべく、ダッジの親会社であるクライスラー が主体となって進められていたレーシングプログラムに基づいて開発されたもので、レーシングカーとロードカーの双方の要素を互いに取り入れ、さらなる改良を可能としていた。
また、北米に留まらずヨーロッパのサーキットにも適応したマシンを開発するため、外部組織からの支援を受ける事も決定。1991年のル・マン24時間レース でマツダ・787B を優勝に導き、スポーツカーレース で長年の経験を持つフランスのレーシングチームであるオレカ と契約を締結した。オレカはレーシングカーの製造やメンテナンスのほか、ヨーロッパにおけるクライスラーのワークスチームの運営も委託されていた。
エンジンは市販モデルのものをベースに、軽量化と耐久性の向上に重きを置いて改良され、パワーアップのためにインテークも再設計されていた。レギュレーションで自然吸気エンジン車の排気量が8000 ccまでと定められていたため、バイパーの7998 ccという排気量はコンペティションに最適だった。なお、シャシ などの基本コンポーネントはイギリスのエンジニアリング会社であるレイナード から発送されていた。
エクステリアではGTSのボディワークを引き継ぎつつ、空力性能を高めるためにリアウィング、リアディフューザー、フロントスプリッターなどのエアロパーツ が追加され、初期のマシンでは夜間の視認性を高めるためにフォグランプも装着されていた。ただしエキゾーストはGTSとは異なり、RT/10と同様のサイドマフラーとされた。他、ボンネットにはエンジン冷却のためのスクープを、ルーフとリアフェンダーにはエアダクトをそれぞれ追加した。
GTS-Rは2005年までに57台が製造された(うち5台はプロトタイプ)。そのうちワークスチームによって使用されたのはごく一部で、多くはプライベーターに販売され使用されていた。
名称について
市販車は主にダッジ・バイパー として知られているが、バイパーはヨーロッパではクライスラー ブランドから販売されており、GTS-Rもヨーロッパで製造された関係で、多くのレースではクライスラー ・バイパー GTS-R としてエントリーしていた。ただし、北米地域のレースに限ってはダッジ・バイパー GTS-R としてエントリーしており、マシン名は地域によって異なる。なお、車体にはクライスラーとダッジのどちらのバッジも付いておらず、ボンネットの側面に「VIPER GTS-R」とのみ表記されていた。
レース戦績
1996年にデビューした2つのレーシングチームは、競争のためにクライスラー・バイパーGTS-Rを別々に開発した。カナスカサウスウィンドは、IMSA GT選手権 のGTS-1クラスに参戦し、1996年デイトナ24時間レース で総合29位でフィニッシュした。またチームは続くセブリング12時間レース で総合12位でフィニッシュし順位をあげた。バイパー・チーム オレカ もル・マン24時間レース から参戦を始めた。
両チームはそれぞれ2台のエントリーで1996年ルマン24時間レース にLMGT1クラスで出場した。4台のうち3台は完走し、最高位総合10位で結果を出した。その後、2チームはそれぞれのシリーズに戻り、バイパー・チームオレカは、BPRグローバルGTシリーズ のレースで、ブランズハッチ で8位、スパ で9位、ノガロ で6位を獲得してた。カナスカサウスウィンドは、モスポート でクラス2位、総合6位でシーズンを締めくくった。
1997年、カナスカサウスウィンドチームはバイパーでの参戦を終了した。これで、バイパーはオレカ がデイトナ24時間レース で唯一のエントリーとなり、総合15位でフィニッシュし、IMSA GTのバイパーの唯一の参戦となった。デイトナの後、チームはヨーロッパに戻り、BPRシリーズに取って代わったFIA GT選手権 に参戦した。チームはGT1クラス に参加していた、ポルシェ とメルセデスベンツ が強力な為、彼らのいないGT2クラス に切り替えると同時に、カスタマーチームのチェンバレン エンジニアリングチームが加わった。オレカは初戦、ロックレーシング ポルシェ・911GT2 を抑え、クラス1-2位フィニッシュでシーズンをスタートし、11レースで通算7勝を挙げ、GT2クラスのドライバー、チームのダブルタイトルを獲得した。チームオレカは3台のマシンで1997年ルマン24時間 に参戦、LMGT2クラス5位、総合14位でフィニッシュした。別のカスタマーであるチームタイサン のバイパーは全日本GT選手権 のGT500に出場し、2戦出場し、最高位は8位だった。
1998年、チームオレカはFIA GT選手権 で10レース中、1戦を除き9勝を挙げタイトルを獲得した。ルマン24時間レース では、初のLMGT2クラス優勝を収め、総合11位でフィニッシュした。プライベーターのチェンバレンはFIA GTで数ポイントを獲得し、デイトナ24時間 では総合14位でフィニッシュした。
1999年、オレカの取り組みはさらに拡大し、チームは2つのチャンピオンシップに参戦。新たに始まるアメリカンルマンシリーズ に2台と、FIA GT選手権 ではさらに2チーム、計4チームで参戦した。 FIA GTでは、GT1クラス が廃止されたこの年、GTクラス1つになり、バイパーは再びシリーズを席巻し、チームオレカが9勝を上げドライバーズ、チームのダブル優勝した。ポールベルモンドレーシング が1勝を挙げた。チェンバレンはチームを改善してチャンピオンシップ2位に終わり、GLPKカースポーツ は4番目のバイパーのカスタマーチームだった。ALMSでも、GTSクラスでチームオレカは、6連勝を上げ、チームチャンピオンシップも獲得した。そしてオレカは、ルマン24時間レース でLMGTSクラスで2連勝を達成し、その他出場したバイパーもクラス上位6位でフィニッシュした。ニュルブルクリンク24時間レース では、ザクスピード のバイパーGTS-Rが総合優勝した。
2000年デイトナ24時間 優勝車、ダッジ・バイパーGTS-R
2000年、オレカは北米に集中することを選択し、FIA GT選手権はプライベーターに任せた。チームは、デイトナ24時間での開幕戦、シボレー・コルベット のファクトリーチームをわずかに上回り、デイトナ24時間レース で総合優勝した。オレカはアメリカンルマンシリーズ でGTSクラス10勝し、再びチームチャンピオンシップを獲得した。オレカはまた、ル・マン24時間レース でコルベットを上回り、LMGTSクラス1位、総合7位で3連覇を達成した。FIA GT選手権 では、ポール・ベルモンドレーシングとカースポーツ・ホランドチームが走り、計6レースで勝利したが、リスターストーム が5勝を上げ、2チームはチャンピオンシップでGTクラス2位と3位になった。
2001年、クライスラー はパートナーのオレカ とともに、ルマン・プロトタイプ での参戦のみに専念することを決定し、バイパーでの参戦を終了した。アメリカンルマンシリーズ では、アメリカン・バイプレーシングが参戦、しかし勝利を収めることはなく、チャンピオンシップ3位だった。しかし、FIA GT選手権 は、8チームがバイパーで参戦。ラルブル・コンペティション は4戦で(スパ24時間レース を含む)で優勝してダブルタイトルを獲得し、カースポーツ・ホランドは2レースで優勝して2位を獲得した。ザクスピード はニュルブルクリンク24時間 で2度目の優勝を果たした。しかし、ルマン24時間レース ではファクトリーチームのコルベットレーシングがクラス優勝し、バイパーは完走が1台だけだった。
2002年、ラルブルコンペティションはFIA GT選手権 チャンピオンシップを防衛したが、シーズン1勝だった。カースポーツホランドとポールベルモンドも勝利を収めたが、新規参戦したフェラーリ・550マラネロ は4勝を上げ今後の可能性を示した。ザクスピードはニュルブルクリンク24時間 で連覇を果たした。ルマン24時間レース では、オレカが支援し参戦したバイパーが、2台のファクトリーコルベットから数周遅れたものの、LMGTSクラス3位でフィニッシュした。
2003年FIAGT選手権 、ドニントンパーク 、ツワーンズ・レーシング、クライスラー・バイパーGTS-R
2003年、プロドライブ 製のフェラーリ・555マラネロ が強さを発揮。バイパーはFIA GT選手権 でラルブルコンペティションのチャンピオンシップ7位が最高になった。JGTC ではチームタイサン のバイパーが、第4戦富士スピードウェイ でGT300クラスで初勝利を手にした。そしてルマン24時間レース に参戦、ラルブルがクラス4位でフィニッシュした。ALMS では、カースポーツ・アメリカがGTSクラス4位だった。
2004年、バイパーGTS-Rは段階的に参戦が廃止され始めた。ツワーンズレーシングだけが、FIA GT選手権 のフルシーズンに参戦し、チャンピオンシップで9位だった。ALMS では、カースポーツ・アメリカがGTSクラスランキング3位だった。
2007年ニュルブルクリンク24時間レース のザクスピード のバイパーGTS-R、新たにヨーロッパでのダッジ ブランドの宣伝を兼ねている2005年、FIA GT選手権 のバイパー参戦はスパ24時間レース のみで12位だった。ALMS では、カースポーツ・アメリカがGT1クラスランキング3位だった。
2006年、バイパーGTS-RはフランスGTとイタリアGTで参戦したが、勝利は減少し続けた。
2007年、ダッジ・バイパーGTS のボディスタイルが5年前モデルチェンジしたため、バイパーGTS-Rのホモロゲーションは終了した。
2008年、1999年のオレカ の仕様に完全に復元されたバイパーGTS-Rがグッドウッドフェスティバルオブスピード に招待され、1999年ルマン24時間のドライバーであるジャスティンベル がその時のカラーリングのマシンで運転した。
2010年、グッドウッドフェスティバルオブスピードに再び参加し、デイトナ24時間レース 総合優勝10周年を祝った。
実績
1996年のレースデビュー以来、バイパー・GTS-Rは、多くのシリーズチャンピオンだけでなく、総合優勝またはクラス優勝を達成した。これは、バイパーGTS-Rの注目すべき勝利したレースの表。
後継車
ダッジ・バイパー コンペティションクーペ GT3
ダッジ が2001年にファクトリーのレースプログラムを終了し、2002年にバイパー のモデルチェンジが行われた後、第1世代のGTS-Rは廃止された。その後、第2世代のダッジ・バイパー コンペティションクーペ として知られるレーシングカーを、希望するカスタマーに販売した。これらの車両は後に設立されたFIA GT3 規定に適合し、さまざまなシリーズで使用できるようになった。オレカ はバイパーコンペティションクーペプログラムを実行し、マシンをグループGT2 でレースできるように、さらに変更を加えた。プライベートチームはこれらの車を使用してシリーズを競い、ヨーロッパのレーシングボックスはインターナショナルGTオープン 、ウッドハウスパフォーマンス、プライムタイムレースグループはアメリカンルマンシリーズ に参戦した。
2012年プチ・ルマン 、SRT・バイパー GTS-R
2012年、第3世代バイパー の発表と同時に、クライスラー はSRT・バイパー GTS-Rで、LM- GTE マシンとしてアメリカンルマンシリーズ に参戦した。[ 1] マシンは、SRTモータースポーツ とライリー・テクノロジーズ によって設計、製造された。
2013年、ALMS では2台のGTS-RはGTクラスでチームランキング3位に終わった。この年のル・マン24時間レース にも参戦、クラス8位、総合24位だった。
2014年、ユナイテッドスポーツカー選手権 の開幕戦、デイトナ24時間 でクラス3位と6位を獲得。その後GTLMクラスのドライバー、チームのダブルタイトルを獲得した。シーズンの終了後、クライスラーはファクトリー活動を再び終了した。しかし、プライベートチームには、GT3-036として公認されたFIA GT3 マシンである、SRT・バイパー GT3-Rが2013年にリリースされた。 [ 2] [ 3]
脚注
外部リンク