1812年イギリス総選挙でウスター選挙区(英語版)から出馬、現職議員で海外滞在中のウィリアム・ゴードン(英語版)を余所者だとして攻撃したが、855票(得票数3位)しか得られずに敗れた[6]。1816年12月の補欠選挙では妥協の結果無投票で当選、1818年イギリス総選挙は選挙戦になったが、ディアハースト子爵以外の立候補者2人の戦いという性格が強く、ディアハースト子爵は1,422票でトップ当選した[6][3]。総選挙の後は選挙申し立てが行われたが、「取るに足らない濫訴」(frivolous and vexatious)として却下された[6]。1820年イギリス総選挙ではウスターの地方自治体からの支持を受けて、無投票で再選した[7]。
1826年5月23日、ウスターシャー副統監の1人に任命された[8]。同年6月の総選挙でははじめ立候補を表明したが、投票の10日前になって突如副統監への任命と「ほかの事柄において私のおかれた状況」(the situation in which I am in other respects placed、『英国議会史(英語版)』では選挙戦の費用を暗示した言葉だとしている)により立候補を取り下げた[2][7]。これにより、地方自治体とその支持者から「敵前逃亡」(desertion)と責められ[6]、1830年イギリス総選挙では妹からウスターで二度と当選できないだろうと評された[2]。『英国議会史』では風評の悪さを不出馬の理由の1つとして挙げた[2]。
ホランド男爵夫人エリザベス・ヴァサル=フォックス(英語版)は1816年の手紙でディアハースト子爵が放蕩と道楽によりウスターで嫌われていると評した[2]。同時代のハリエッテ・ウィルソン(英語版)はコヴェントリー伯爵を放蕩、けちで低俗な貴族(a profligate nobleman, stingy and unwashed)と評したが[3]、『完全貴族名鑑』ではウィルソン自身も放蕩さについてよく知っている(herself no mean judge of profligacy、「ウィルソン自身も放蕩だった」の意味)と評した[1]。
^ abcdWilliams, M. J.; Thorne, R. G. (1986). "Worcester". In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年10月9日閲覧。
^ abSalmon, Philip (2009). "Worcester". In Fisher, David (ed.). The House of Commons 1820-1832 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年10月9日閲覧。