初代ストラドブルック伯爵
初代ストラドブルック伯爵 ジョン・ラウス (英語 : John Rous, 1st Earl of Stradbroke 、1750年 5月30日 – 1827年 8月17日 )は、イギリス の政治家、貴族。1780年から1796年まで庶民院 議員を務めた[1] 。
生涯
第5代準男爵サー・ジョン・ラウス と妻ジュディス(Judith 、旧姓ベディングフェルド(Bedingfeld )、1794年9月10日没、ジョン・ベディングフェルドの娘)の息子として、1750年5月30日に生まれた[1] [2] 。1764年から1767年までウェストミンスター・スクール で教育を受けた後[3] 、1768年にオックスフォード大学 モードリン・カレッジ に入学した。1771年10月31日に父が死去すると、準男爵 位を継承した[1] 。
父がサフォーク選挙区 (英語版 ) で庶民院 議員に選出され、現職議員のまま死去したため、ラウスは父の死後に補欠選挙での立候補を表明したが、ローランド・ホルト (英語版 ) が立候補を表明すると自身の立候補を取り下げた[4] 。1780年イギリス総選挙 で再び立候補を表明すると、今度はホルトが立候補を取り下げ、ラウスが無投票で当選した[4] 。1784年イギリス総選挙 では1,652票でトップ当選した[4] 。
議会ではトーリー党 に属すると自称したが、第2代シェルバーン伯爵ウィリアム・ペティ は1782年3月にラウスを無所属として分類した[3] 。実際にトーリー党政権であるノース内閣 には反対の立場をとり、1782年3月にはノース内閣への内閣不信任決議 案を提出して、倒閣に成功した[3] 。シェルバーン伯爵内閣 期(1782年 – 1783年)ではアメリカ独立戦争 の予備講和条約に賛成票を投じ、フォックス=ノース連立内閣 期(1783年)では閣僚チャールズ・ジェームズ・フォックス が提出した東インド法案に反対票を投じた[3] 。第1次小ピット内閣 期(1783年 – 1801年)では内閣を支持、1788年から1789年にかけての摂政法危機(Regency Crisis )においても内閣を支持した[3] 。選挙法改正にも賛成し、1783年5月と1785年4月に賛成票を投じた[3] 。
1790年イギリス総選挙 で国教忌避 者から反対されたが、サフォークのジェントリ 会合(1790年2月)ではイングランド国教会 とイギリスを支持する候補(candidates attached to church and state )に票を投じることが決定された[5] 。そのため、この会合ではラウスと第6代準男爵サー・チャールズ・バンベリー (1761年よりサフォーク選出の議員を務めたが、1784年の総選挙で落選した、ホイッグ党 フォックス派の人物[4] )に手を組むことを求めた[5] 。『英国議会史 (英語版 ) 』の形容によれば、ラウスは候補者3人のうち一番緊張した人物であり、首相小ピットに対し度々助けを求めた[5] 。例えば、4月に対立候補の第2代準男爵サー・ジェラード・ヴァンネック (英語版 ) が選挙資金を大量に投入したと述べ、5月には(内閣支持者にもかかわらず)有力者から支持されていないと苦情を言った[5] 。小ピットがラウスの叙爵申請を進める可能性を示唆したため、ラウスは選挙戦を戦い抜き、結果はバンベリー3,049票、ラウス2,761票、ヴァンネック2,080票でバンベリーとラウスが当選した[5] 。
1790年以降も1795年扇動集会法 (英語版 ) に賛成するなど政府を支持したが、1790年の総選挙で政府から十分な支持を得られなかったとして不満を感じ、1794年8月に再び叙爵を申請したときには小ピットの(1790年の)約束がまことではなく、選挙戦を戦い抜かせるための方便であると愚痴を漏らした[6] 。1794年、サフォーク・ヨーマンリー連隊 (英語版 ) の大尉に任命された[1] 。そして、1796年の解散総選挙 に伴う叙爵でついに申請が通り[6] 、1796年6月14日にグレートブリテン貴族 であるサフォーク 州におけるデニントンのラウス男爵 に叙された[1] [7] 。貴族院 ではヘンリー・アディントン の支持者と称した[6] 。
1796年の叙爵以降は昇叙を申請するようになった。例えば、1800年4月にはアイルランドのリメリック県 とティペラリー県 で1万4千エーカー の領地を所有したことを理由にアイルランド貴族 の伯爵位を申請、1807年に連合王国貴族 の子爵位を申請、1818年には摂政王太子ジョージ (後の国王ジョージ4世)からの「丁重な扱い」(marked civility and affection )を理由に昇叙を申請した[6] 。1820年にはジョージ4世妃キャロライン・オブ・ブランズウィック への痛みと罰法案 (英語版 ) に賛成票を投じた[8] 。そして、1821年戴冠式記念叙勲 (英語版 ) において、1821年7月18日に連合王国貴族 であるサフォーク 州におけるダニッチ子爵 とストラドブルック伯爵 に叙された[1] [9] 。
1827年8月17日にメイフェア のハートフォード・ストリート33号(33 Hertford Street )で死去、サフォーク のワングフォード (英語版 ) で埋葬された[1] 。息子ジョン・エドワード・コーンウォリス (英語版 ) が爵位を継承した[1] 。
家族と私生活
1788年1月、フランシス・ジュリアナ・ウォーター=ウィルソン(Frances Juliana Warter-Wilson 、1790年6月20日没、エドワード・ウォーター=ウィルソンの娘)と結婚[1] 、1女をもうけた[2] 。
1792年2月23日、シャーロット・マリア・ウィテカー(Charlotte Maria Whittaker 、1769年3月17日 – 1856年1月15日、エイブラハム・ウィテカーの娘)と再婚[1] 、5男2女をもうけた[2] 。
ジョン・エドワード・コーンウォリス (英語版 ) (1794年2月13日 – 1886年1月27日) - 第2代ストラドブルック伯爵[1]
ヘンリー・ジョン (英語版 ) (1795年1月23日 – 1877年6月19日) - 海軍軍人、庶民院議員。1836年1月2日、ソフィア・カスバート(Sophia Cuthbert 、1871年1月30日没、ジェームズ・ラムゼイ・カスバートの娘)と結婚[2]
ウィリアム・ルーファス(William Rufus 、1796年8月1日 – 1875年3月2日) - 1822年12月27日、ルイーザ・ハッチ(Louisa Hatch 、1876年10月1日没、ジェームズ・ハッチの娘)と結婚、子供あり[2]
シャーロット・マリアン・ハリエット(Charlotte Marianne Harriet 、1830年4月29日没) - 1810年12月27日、ナサニエル・ミクルスウェイト(Nathaniel Micklethwait )と結婚、子供あり[2]
ヒュー・アンソニー(1800年7月15日 – 1828年9月29日[2] )
ルイーザ・マリア・ジュディス(1843年3月24日没) - 1824年2月23日、スペンサー・ホーシー・ディ・ホーシー (英語版 ) (1860年5月20日没)と結婚、子供あり[2]
トマス・マナーズ(1810年 – 1841年[2] )
馬主であり、下記の競走馬を所有した。
出典
^ a b c d e f g h i j k Cokayne, George Edward , ed. (1896). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T) (英語). Vol. 7 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 261–262.
^ a b c d e f g h i j Burke, Sir Bernard ; Burke, Ashworth P., eds. (1915). A Genealogical and Heraldic History of the Peerage and Baronetage, the Privy Council, Knightage and Companionage (英語) (77th ed.). London: Harrison & Sons. pp. 1897–1898.
^ a b c d e f Namier, Sir Lewis (1964). "ROUS, Sir John, 6th Bt. (1750-1827), of Henham Hall, Suff." . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年10月22日閲覧 。
^ a b c d Namier, Sir Lewis (1964). "Suffolk" . In Namier, Sir Lewis ; Brooke, John (eds.). The House of Commons 1754-1790 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年10月22日閲覧 。
^ a b c d e Stokes, Winifred; Thorne, R. G. (1986). "Suffolk" . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年10月22日閲覧 。
^ a b c d Stokes, Winifred (1986). "ROUS, Sir John, 6th Bt. (1750-1827), of Henham Hall, Suff." . In Thorne, R. G. (ed.). The House of Commons 1790-1820 (英語). The History of Parliament Trust. 2021年10月22日閲覧 。
^ "No. 13897" . The London Gazette (英語). 31 May 1796. p. 527.
^ "Preamble" . Parliamentary Debates (Hansard) (英語). House of Lords. 10 November 1820. col. 1744.
^ "No. 17724" . The London Gazette (英語). 14 July 1821. p. 1461.
^ Sporting Magazine: Or, Monthly Calendar of the Transactions of the Turf, the Chase and Every Other Diversion Interesting to the Man of Pleasure, Enterprize, and Spirit (英語). Vol. 46. London: John Wheble . 1815. p. 7.
外部リンク