初代クランブラシル伯爵 ジェームズ・ハミルトン (英語 : James Hamilton, 1st Earl of Clanbrassil PC (Ire) 、1691年 頃 – 1758年 3月17日 )は、イギリスの政治家、アイルランド貴族 。
生涯
ジェームズ・ハミルトン(James Hamilton )とアン・モードント(Anne Mordaunt 、初代モードント子爵ジョン・モードント (英語版 ) の娘)の息子として生まれた[1] 。
1715年から1719年までダンドーク選挙区 (英語版 ) の代表としてアイルランド庶民院 議員を務め、1719年5月13日にアイルランド貴族 であるリメリック市子爵 (Viscount of the City of Limerick 、「リメリック子爵」と短縮されることも多い)とダウン県 におけるクランボイ男爵 (Baron Claneboye )に叙された[1] 。
1727年イギリス総選挙 で野党派ホイッグ党 (英語版 ) の候補としてグレートブリテン庶民院 (英語版 ) 議員(ウェンドーヴァー選挙区 (英語版 ) から出馬)に当選した[2] 。1729年の牢獄委員会(gaols committee )で委員を務め、1733年にはジョージア植民地委員会(Common Council for the Province of Georgia )の委員も務めた[2] 。1734年イギリス総選挙 で落選したが、選挙申し立てで議席を取り戻した[2] 。1741年2月にロバート・ウォルポール の解任動議を支持したが、同年の総選挙 で落選、翌年1月にタヴィストック選挙区 (英語版 ) で行われた補欠選挙で第4代ベッドフォード公爵ジョン・ラッセル の支持を受けて当選した[2] 。ウォルポール失脚後の組閣において、下級海軍卿(Lord of the Admiralty )の1人として名を挙げられたが、庶民院でウォルポール内閣の秘密調査委員会を設立する動議を提出したことでジョージ2世 の怒りを買い、下級海軍卿就任を見送られた(その代わり、秘密調査委員会の主席に就任した)[2] 。1746年まで与党を支持した後、王太子フレデリック・ルイス の党派に加わり、フレデリック・ルイスが即位した暁に陸軍支払長官 (英語版 ) か下級海軍卿に任命されるものとされた[2] 。1747年イギリス総選挙 で第4代カーライル伯爵ヘンリー・ハワード の支持を受けてモーペス選挙区 (英語版 ) で当選したが、以降3年間をアイルランドで過ごし、1751年にいくらか動議と発言をしたのを最後にイングランド政界から身を引いた[2] 。
1746年4月14日にアイルランド枢密院 (英語版 ) の枢密顧問官に任命され、1756年11月24日にアーマー県 におけるクランブラシル伯爵 に叙された[1] 。また、1756年から1758年に死去するまでラウス県 総督を務めた[1] 。
1758年3月17日にダブリン で死去、息子ジェームズ が爵位を継承した[1] 。
家族
1728年10月15日、デン・ハーグ でヘンリエッタ・ベンティンク(ウィリアム・ベンティンク の娘)と結婚[1] 、1男2女をもうけた[3] 。
出典
^ a b c d e f Cokayne, George Edward ; Gibbs, Vicary ; Doubleday, H. Arthur, eds. (1913). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (Canonteign to Cutts) (英語). Vol. 3 (2nd ed.). London: The St. Catherine Press, Ltd. p. 212.
^ a b c d e f g Sedgwick, Romney R. (1970). "HAMILTON, James, 1st Visct. Limerick [I] (c.1691-1758), of Dundalk, co. Louth." . In Sedgwick, Romney (ed.). The House of Commons 1715-1754 (英語). The History of Parliament Trust. 2019年10月26日閲覧 。
^ "Clanbrassill, Earl of (I, 1756 - 1798)" . Cracroft's Peerage (英語). 29 October 2003. 2019年10月26日閲覧 。