初代ダルハウジー侯爵 、第10代ダルハウジー伯爵ジェイムズ・アンドルー・ブラウン=ラムゼイ (英 : James Andrew Broun-Ramsay, 10th Earl of Dalhousie, 1st Marquess of Dalhousie , KT , PC 、1812年 4月22日 - 1860年 12月19日 )は、イギリス の政治家 、貴族 。
1848年 から1856年 にかけてインド総督 を務め、近隣諸国領土や藩王国 の併合を推進した。
経歴
インドの絵に描かれたダルハウジー卿
1812年 、スコットランド貴族 第9代ダルハウジー伯爵 ジョージ・ラムゼイ とその妻キャサリン(旧姓ブラウン)の三男として生まれる[3] 。
ハーロー校 を経てオックスフォード大学 クライスト・チャーチ を卒業[3] 。1836年 、第8代ツィードデール侯爵 ジョージ・ヘイ (英語版 ) の娘スーザン と結婚、2女をもうける。
1837年 から1838年にかけてハディングトンシャー選挙区 (英語版 ) から選出されて庶民院 議員を務めるも[3] 。翌年1838年3月に死去した父より第10代ダルハウジー伯爵位や連合王国貴族 の第2代ダルハウジー・オブ・ダルハウジー・キャッスル男爵位などを継承し[3] 、貴族院 議員に転じる[2] 。
保守党 に所属し[4] 、1843年 から第二次ピール 内閣の商務庁副長官 (英語版 ) 、1845年から商務庁長官 を務める[3] 。
保守党の政治家ながらホイッグ党 党首ジョン・ラッセル卿 から高く評価されており、ピールの跡を受けて首相になったラッセルの決定によって1848年1月よりインド総督 に就任した[5] 。
積極的な併合政策を取り、第2次シク戦争 (1848年-1849年)によりパンジャーブ を併合し、1852年 からの第2次ビルマ戦争 でペグー 地方を奪取し、下ビルマ 一帯をイギリス支配下においた[6] [7] [注釈 1] 。
既にイギリス保護領となっていたインド藩王国 に対しては強引な併合政策を推し進め、養子相続を認めない「失権の原理 」で、後継者の絶えたサーターラー藩王国 (1849年 )、ジャーンシー藩王国 (1854年 )、ナーグプル藩王国 (1854年 )、タンジャーヴール藩王国 (1855年 )などを、次々とイギリスへ編入した[6] [8] 。
また、イギリスによって既に領土を奪われ、年金 で暮らしていた君主たちに対しても「失権の原理」を適用し、1851年 に旧マラーター王国 の宰相バージー・ラーオ2世 が死ぬと、その養子ナーナー・サーヒブ に年金の支払いを拒否した[8] [9] [注釈 2] 。1855年に旧カルナータカ地方政権 の当主グラーム・ムハンマド・ガウス・ハーン が死ぬと、同様の措置を取った。
1853年 、デカン高原 の大藩王国ニザーム藩王国 からは、イギリス駐留軍駐留費の不払いを理由に、保護条約に基づき、その代償としてベラール地方 を併合した。同年には同行していたスーザン夫人が体調を崩して帰国の途に就いたが、途上で死去した。
1856年 、同じく北インド の大藩王国アワド藩王国 に対しては、失政が行われていると理由をつけて、その王権を取り上げ、全土併合を宣言した[6] 。
彼はインドにおいて、鉄道、道路、橋、運河の建設、郵便制度や電信施設の開設・整備、軍隊・警察の拡充などにもつとめ、そのインフラ事業と藩王国の強硬な併合政策と合わせて、植民地インドの全域を以前より緊密な統一下においた総督となった[10] [11] 。このため「近代インドの建設者」との評価もある[12] 。
1856年、任務を終えて帰国したが、一日に16時間以上も働くほどの過労のため健康を害しており、杖無しでは歩行困難な状態になっていた。1857年 、ラムゼイの強引な藩王国併合政策が原因の一つとなり、インド大反乱 が発生し、彼の政策は非難を受けたが、自ら反論に立つ余力もなく、健康をどんどん悪化させて、1860年12月19日には死去した[13] 。
彼には二人の娘がいたのみだったため、1849年に叙されたダルハウジー侯爵の称号は継承することができず、彼一代で終わった[3] 。ダルハウジー伯爵位は従兄弟 のフォックス に継承された。長女スーザン(1837年-1898年)は2度結婚したが子供に恵まれなかった。次女エディス(1839年-1871年)はニュージーランド総督 を務めた第6代ファーガソン準男爵 ジェームズ・ファーガソン と結婚し、子孫を現在に残している。
栄典
爵位
勲章
その他名誉職
脚注
注釈
出典
参考文献
関連項目
外部リンク