第9代サネット伯爵(英語版)サックヴィル・タフトン(英語: Sackville Tufton, 9th Earl of Thanet、1769年6月30日 – 1825年1月24日)は、イギリスの貴族。1786年までタフトン卿の儀礼称号を使用した。
生涯
第8代サネット伯爵サックヴィル・タフトンとメアリー・サックヴィル(Mary Sackville、1746年4月1日 – 1778年9月30日、ジョン・フィリップ・サックヴィル(英語版)の娘)の長男として、1767年6月30日に生まれた[1]。1786年4月30日に父が死去すると、サネット伯爵の爵位を継承した[1]。父が死去した時点で未成年だったため、母方の祖父ジョン・フィリップ・サックヴィル(英語版)が保護者を務めた[2]。また、若い頃は海外、特にウィーンで過ごすことが多く、後に結婚することとなるアン・シャーロット・ド・ボヤノヴィッツともそこで知り合った[2]。
政治にかかわることは少なかったが、第5代ベッドフォード公爵フランシス・ラッセル(英語版)を支持し、小ピットに反対したことは知られている[2]。
1798年5月、チャールズ・ジェームズ・フォックス、リチャード・ブリンズリー・シェリダンらホイッグ党員とともにアーサー・オコンナー(英語版)の裁判に出席した[2]。オコンナーは裁判で無罪判決を勝ち取ったが、別の罪状による逮捕状があったためすぐには釈放されず、裁判所で暴動がおこった[2]。その後、サネットらは裁判所で暴動を起こし、灯りを消してオコンナーの逃亡を手助けした容疑で訴えられた[2]。サネット伯爵の裁判は1799年4月25日に王座裁判所(英語版)で行われ、ジョン・スコット(英語版)が検事を、トマス・アースキン(英語版)が弁護士を、初代ケニオン男爵ロイド・ケニオン(英語版)が裁判官を務めた[2]。このとき、シェリダンは弁護側の証人として証言し、エドワード・ロー(英語版)の「サネット卿がオコンナーの逃亡に助力したと信じているか」の質問を8回もはぐらかし、最後までその質問に回答しなかったが、結局サネット伯爵は6月10日に有罪判決が下され、1年の禁固刑(刑務所はロンドン塔)と1,000ポンドの罰金に処された[2]。この判決について、英国人名事典は「不公平でなかったとしても、過度に厳しいものである」という評価を下している[2]。
釈放された後はホスフィールド(英語版)に引退して農業に専念したが、7年間犯罪行為をしない保証として2万ポンドの保証金の支払いを命じられた[2]。晩年はフランスで過ごすことが多く[2]、1825年1月24日にフランスのシャロンで死去、2月7日にレイナム(英語版)で埋葬された[1]。子供がおらず[2]、弟チャールズが爵位を継承した[1]。
家族
1811年2月28日、アン・シャーロット・ド・ボヤノヴィッツ(Anne Charlotte de Bojanovitz、1819年2月15日没、ハンガリー出身の女性)と結婚したが[1][3]、2人の間に子供はいなかった[2]。
系譜図
出典
- ^ a b c d e Cokayne, George Edward, ed. (1896). Complete peerage of England, Scotland, Ireland, Great Britain and the United Kingdom, extant, extinct or dormant (S to T) (英語). Vol. 7 (1st ed.). London: George Bell & Sons. pp. 389–390.
- ^ a b c d e f g h i j k l m Seccombe, Thomas (1899). "Tufton, Sackville" . In Lee, Sidney (ed.). Dictionary of National Biography (英語). Vol. 57. London: Smith, Elder & Co. pp. 294–295.
- ^ "Thanet, Earl of (E, 1628 - 1849)". Cracroft's Peerage (英語). 9 June 2009. 2019年10月12日閲覧。