クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・バリアリクス (ラテン語 : Quintus Caecilius Metellus Baliaricus 、生没年不詳)はプレプス (平民)出身の共和政ローマ の政務官 。紀元前123年 に執政官 (コンスル)を務めた。バレアレス諸島 の海賊を制圧し、バリアリクスのアグノーメン (第四名、添え名)を得た。
出自
カエキリウス・メテッルス家系図
プレプスであるカエキリウス氏族 の出身。父も祖父もプラエノーメン (第一名、個人名)はクィントゥスであるが[ 2] 、父は紀元前143年の執政官クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・マケドニクス である(バリアリクスは長男)。
経歴
紀元前143年から紀元前142年にかけて父の下でヒスパニア・キテリオル (近スペイン)で戦ったとされるが(第二次ケルティベリア戦争 )、これは疑わしい
[ 3] 。少なくとも紀元前126年 以前には法務官 (プラエトル)に就任していたはずである[ 4] 。紀元前123年の執政官に、パトリキ (貴族)のティトゥス・クィンクティウス・フラミニヌス と共に選出された。執政官として、バレアレス諸島の海賊の制圧任務を担当した[ 5] 。この任務は1年では終わらず、紀元前122年 にも前執政官 (プロコンスル)として、引き続きインペリウム (軍事指揮権)を保有した[ 6] 。
紀元前121年 までには、バレアレス諸島のマヨルカ島 とメノルカ島 を征服し[ 7] 、ローマで凱旋式 を実施するとともに、バリアリクスのアグノーメンを得た[ 8] 。この勝利の後、植民都市パルマ とポリエンティア(現在のアルクーディア )を建設し、イベリア半島から3,000人のローマ人を入植させた。紀元前120年に監察官 (ケンソル)に就任。このときに、プブリウス・コルネリウス・レントゥルス を元老院第一人者(プリンケプス ・セナートゥス)に再任したと思われる[ 9] 。
子孫
バリアリクスの子供としては、以下が知られている。
脚注
^ Broughton I, pg. 512
^ 凱旋式のファスティ
^ Broughton III, pg. 36
^ Broughton I, pg. 508
^ Broughton I, pgs. 512-513
^ Broughton I, pg. 518
^ Morgan, pgs = 217–231
^ Broughton I, pg. 521; Smith pg. 1058
^ Broughton I, pg. 523
参考資料
Broughton, T. Robert S. , The Magistrates of the Roman Republic , Vol I (1952)
Broughton, T. Robert S. , The Magistrates of the Roman Republic , Vol III (1986)
Morgan, M. Gwym. “The Roman Conquest of the Balearic Isles”. Californian Studies of Classical Antiquity 1969/2 .
Smith, William, Dictionary of Greek and Roman Biography and Mythology , Vol II (1867)
その他資料
Manuel Dejante Pinto de Magalhães Arnao Metello and João Carlos Metello de Nápoles, "Metellos de Portugal, Brasil e Roma", Torres Novas, 1998
関連項目