その実際の修道生活は、隠者が山奥でソロ活動をする東方の伝統と、西方の修道院でみられる集団生活の、言うならハイブリッドである[14]。具体的にどのような生活をしていたかは、まず右の「カルトジオ会修道院の平面図」を参照されたい。これはかつてあったシャルトリューズ・ド・クレルモン修道院の、1850年代の復元作業において作成された図面であるが[9]、図の上のほう、方位を示す記号のある D の部分が中庭とそれを囲む回廊で、その周囲に同じような形をした I で示された18個の部屋があるのが確認できる(回廊左下の隅の1つとその右にある、他の部屋と比べて小さいのをあわせて18個)。これらが修道士の個室である[15]。 個室で寝起きするという生活は、例えばシトー会のように大寝室で雑魚寝[16]する、ベネディクト会系の西方修道院との違いである。次にその下の「修道士の個室」と題された図を参照されたい。これは先述の個室をズームアップしたものである。左上の一番広い箇所 H は個室内に設えられた中庭で、周囲は壁に囲まれており外は見えない。 A は外の回廊の歩廊である。これらに囲まれた居住スペースに修道士は寝起きした。[10] 日課はまず夜11時から未明の2時3時に始まる。まず個室において祈りを捧げ、その後は修道院の教会堂で共同で祈る。共同で祈る際も、終わったらすぐ個室にもどり、無駄話は一切してはならない。それぞれの祈りの合間には庭仕事、写本、酪農といった仕事も行った。就寝時間は夜7時である。 [17] このように「孤独」を追求できるような環境が整えられており、例えば個室図でいう回廊(A)から中庭(H)に行ける B の通路でさえも、個室の主以外は修道院長しか立ち入ることはできなかった。ちなみに個室図において、回廊(A)から個室内部に向けて I で示される小さな穴が開いているが、これは主食のパンや、中庭(H)でとれない添菜を助修士が修道士と会わずに差し入れるための穴である。[18] 食事も基本的に個室で[19]、唯一会話ができるのは日曜日と祝日と集会のわずかな時間のみ、という生活であった[20]。また、カルトジオ会は民衆への説教や、伝道といったことも一切していなかったので、完全に修道院の決められた区画に引きこもる生活を規定されていた。教会堂の前庭にも、日々通る回廊の中庭にすら出ることはなかった。[21]