Wedgwoodの陶器
ウェッジウッド (Josiah Wedgwood and Sons )はイギリス の陶磁器 メーカー。ジョサイア・ウェッジウッド によって1759年 に設立された。
ロイヤルドルトン 社と並ぶ世界最大級の陶磁器メーカーの一つである。主に高級食器を製造・販売しているが、アクセサリ やタオル 、テーブルクロス なども取り扱っている。
日本には子会社としてフィスカース ジャパン株式会社がある。
歴史
創業期
イングランド の陶業は17世紀 までロンドン やブリストル で生産されるデルフト陶器 が主であったが、18世紀 に入ると上質陶器やストーンウェア がこれを代替していった。これらの製造には良質の粘土 が必要であり、イングランド中部のスタフォードシャー州 は良質の粘土や石炭 を産出する事などから陶業が急激に発展した。
ジョサイア・ウェッジウッド はこの地方の陶工の息子として1730年 に生まれ、若いうちから製陶技術や化学 、図版 などの知識を評価されていた。そして数回の共同経営を経た後、1759年 にバーズレム(Burslem)にある工場を叔父から引継ぎ、独立・開業した。この際に従兄弟のトーマスを管理者として雇用している。
このアビー・ハウス工場(Ivy House Works)で開発した緑色の釉薬 を用いた陶器は好評を博し、3年後の1762年 には同じくバーズレムにあるブリック・ハウス工場(Brick House Works)に移転した。ここでジョサイアは、会社の代表作となる、エナメル を用いたクリーム色の陶器を完成させた。これはシャーロット王妃 (ジョージ3世 の妻)にも納められ、「クイーンズウェア (女王の陶器、Queen's Ware)」という名称の使用が1765年 に許可された。
1769年 にはリバプール の商人であったトーマス・ベントレー(Thomas Bentley)を共同経営者として迎え入れると、トーマスの人脈などもあって会社は発展を続けた。クイーンズウェアはヨーロッパ のみならずアメリカ大陸 にも出荷され、1774年 にはロシア のエカチェリーナ2世 から944点の「フロッグ・サービス」と呼ばれる陶磁器セットの注文を受けている。
エトルリア工場への移転
このような中でジョサイアは再び工場を移転することにし、ニューカッスル・アンダー・ライム(Newcastle-under-Lyme)とハンレー(Hanley)の中間の地を選んだ。この土地はイタリア 南部の地にちなんでエトルリア と命名され、工場名もエトルリア工場となった。1769年 の操業開始後もしばらくはブリック・ハウス工場で低価格の実用品の生産が続けていたが、しばらくすると全製品が移管されてブリック・ハウスは閉鎖された。
この頃、在庫の増加が資金繰りを圧迫して経営を危険にさらすことをジョサイアは初めて理解し、当時としては先進的な原価計算 を取り入れるようになった。これによって高級品の生産に対していたずらにコストが増加してしまうことを防いだ、と考えられている。
エトルリア工場では、まずブラック・バサルト (Black Basalt)が開発された。これは、当時スタフォードシャー州 で作られていた黒色陶器を改良したもので、今日まで会社の主力製品の一つとなっている。さらに1774年 にはジャスパーウェア が開発され、1790年 にジャスパーによるポートランドの壺 が作製された。この壺は1878年 にウェッジウッド社の商標 に組み込まれ、コーポレートアイデンティティ の重要な要素となっている。
ジョサイア(一世)の死後、その息子であるジョサイア二世が経営を引き継いだ。二世はボーンチャイナ の製造を試みたが生産はすぐに中止され、1878年 にボーンチャイナ生産は再開された。以降、三世から五世まで経営は世襲され、1895年 にジョサイア・ウェッジウッド・アンド・サンズ (Josiah Wedgwood & Sons)として会社が法人化された。
20世紀以降のウェッジウッド社
エトルリア工場が開設されて150年以上が経つと、設備や敷地面積は限界に近づいていた。このため、6マイル 離れたストーク=オン=トレント のバーラストンへの工場移転が1936年 に決議され、1940年 から操業が始まった。この新工場によって、1950年代 の生産は建設前の20倍以上に拡大した。
1960年代 に入ると、創業300年以上のウィリアム・アダムス社をはじめ多くの同業者を買収して会社の規模は2倍になった。このような拡大の中、1967年 にジョサイア五世が引退するとアーサー・ブライアンが社長に就任し、初の一族外の経営者となった。1970年代 には引き続き陶磁器 メーカーを買収するとともにキングス・リン・グラス社など陶磁器以外のガラス メーカーなども買収し、業務内容を広げた。
1986年 、コングロマリット であるロンドン・インターナショナル・グループ(現・SSLインターナショナル)がウェッジウッド社に対する敵対的買収 を試みた。これに対抗するためにブライアン会長は、アイルランド のクリスタルガラス メーカーであるウォーターフォード・クリスタル社 をホワイトナイト とし、同社との合併を選択した。これにより、ウォーターフォード・ウェッジウッド社 が誕生し、ウェッジウッドはその傘下に入った。
ウォーターフォード社は同じ食器 メーカーであり合併のシナジー効果が強く期待されたが、ウォーターフォード社のリストラ による経営の停滞などからすぐに十分な効果は生まれなかった。しかしウェッジウッド社は1995年 に低価格の硬質陶器を発売するなどの戦略を取り、陶磁器メーカーとして世界のトップシェアを争う存在であり続けている。
2009年 1月5日 、アイルランドの本社はグループの中核である英国とアイルランドの子会社について法定管財人による管理を裁判所に申請し、事実上経営破綻 した[1] 。
2009年 3月26日 、ニューヨークを本拠地とするKPS キャピタルパートナーズ社によって設立された新会社WWRDグループホールディングス (英語版 ) が、ウォーターフォード ウェッジウッドplc(ウォーターフォード・ウェッジウッド グループの全ての子会社を含む)の特定の資産を買収したことを発表した。
2015年 7月、フィンランド企業、フィスカース に買収され、ロイヤルドルトン 、ロイヤルアルバート と共にWWRDグループホールディングスの一員となった。
沿革
高級陶磁器メーカーとしての戦略
価格戦略
ウェッジウッド社の発展はイギリスの産業革命 と時期が重なるため、新技術を導入して製造・運搬のコストを低減し、安価な商品を大量生産した事が要因だという見方もある。しかし、近年の研究ではむしろ同業他社よりも高い価格で販売を行なっていた事が明らかにされ、そのためのデザイン やイメージによる差別化に成功したことが特徴だとされる。
創業者のウェッジウッドが陶磁器 の製作に優れていたことはその大きな要因だが、高級品のデザインのための参考資料にも比較的大きな予算が当てられるなど、組織的にデザインの品質向上が意図されていた。これによって特に製造コストの高い装飾品部門において高い利益率を確保し、例として1798年 の決算では装飾品部門が全体の支出に占める割合は24%だが、利潤に占める割合は43%に達していた。
なお、会社が低価格戦略を全く試みなかったわけではなく、在庫が増加した1771年 の不況期 には中流階級の需要開拓を狙って価格を引き下げている。しかしその効果はあまり見られず、社長だったジョサイアは「上流階級は多少の価格差に関心がなく、中流階級の購入を促すには不十分だった」と結論付けている。
命名とイメージ
ジョサイア(一世)は、工場の地名をエトルリア としただけでなく、オリジナルと異なる技法・材料で作られた作品に「ポートランドの壺 」という同一名称を付けるなど、意識的に古代ギリシャ ・ローマ のイメージを利用した。また、技法の特許 に際して「蝋画法」という命名をしているが、これは同名の古代の技法とは別物である。
ウェッジウッド・ブルーのジャスパーウェア 炻器 sprigged (英語版 ) レリーフ
この他、製品名についてもジャスパー(碧玉 )、バサルト(玄武岩 )など高級感のある名称を好んだ。ウェッジウッドの名声は王室 や貴族 の庇護によるところが大きいが、このような命名方針はそれをさらに強める役割を果たしたと考えられている。
脚注
参考文献
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岩崎尚人、神田良 「欧米長期存続企業の研究1:『ウェッジウッド』」 Vol.134、成城大学 経済研究、P.84-66、1996年
新川徳彦 「ジョサイア・ウェッジウッドの経営とデザイン政策」 Vol.51、早稲田 経済学研究、P.39-64、2000年
「岩波講座 世界の歴史22 産業と革新-資本主義の発展と変容-」鈴木良隆 、P87-105、岩波書店 、1998年
関連項目
外部リンク
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